悪木盗泉っていうけどさ、その“悪木”誰が決めたん?
四字熟語って、字面だけ見るとやたら立派に見える。
「悪木盗泉(あくぼくとうせん)」。
悪そうな木には寄るな。
盗泉という名前の泉の水を飲むな。
苦しくても道理を外れるな。
まあ、言いたいことはわかる。
「悪事に近づくな」
「誘惑に負けるな」
という教訓なのだろう。
ただ、毎回思う。
その“悪木”って、誰が決めたん?
って。
例えば悪木。
棘があります。
臭いです。
近寄ると痛いです。
だから悪。
いや待て。
植物側からしたら、
「食われないためです」
「虫除けです」
「生存戦略です」
なんだが?
しかも一部の虫には媚薬レベルの香りだったりする。
つまり、
“人間にとって不快”=悪
という話になっていないか。
悪木側からしたら、
「お前らに都合悪いだけでは?」
と言いたくなるだろう。
サボテンだって棘ある。
バラだって棘ある。
ドクダミだって臭う。
でも彼らは別に悪意でやってない。
生きるために合理化した結果でしかない。
なのに、
「なんか嫌なので悪木です」
と言われる。
だいぶ理不尽である。
盗泉も同じ。
名前が悪いから水を飲まない。
いや、
なんで“盗泉”って名前になったんだよ。
そこ先に調べろよ。
昔に盗賊がいたのかもしれない。
治安が悪かったのかもしれない。
土地の由来かもしれない。
つまり、
結果ラベルだけ見て構造を見てない。
最近の社会、これ多くない?
「空気読めない」
「変わってる」
「扱いにくい」
と言われる人も、
環境が変われば
「突破力がある」
「独創性がある」
「危機耐性が高い」
になる。
逆に、
今は合法だから正しいと言われていることも、世が世なら普通に悪だったかもしれない。
過去:
「そんな売り方は卑しい」
現代:
「合法的マーケティングです」
未来:
「あの時代の倫理観ヤバかったね」
普通にありえる。
だから悪木盗泉を見る時に気になる。
結局、
“悪”って誰が決めてんの?
って。
時代か?
社会か?
権力か?
多数派か?
悪木側からしたら、
「お前らの道理で勝手に悪認定するなよ」
案件である。
悪木盗泉というけど、
その悪木がなぜ生えたのか。
なぜ棘を持ったのか。
なぜ臭うのか。
そこを見ないで、
結果だけラベル化してるなら、
それは教訓というより、
都合の良い道徳の圧縮版
なのかもしれない。
