メイクアップ
「光で飛ばして勝負するしかないの、わかってんの?」
鏡の前でハイライトを叩き込みながら、絵理沙は自分に言い聞かせていた。
中高時代、アルバムでは“背景の女の子”。
けれど今の彼女には、「努力で勝ち取った顔」がある。
婚活パーティーという“戦場”に立つたびに、
整えた髪と服とメイクが、彼女を“戦闘形態”へと変えていく──はずだった。
でも、「綺麗ですね」「モデルみたいですね」と褒められたあとに、
会話が続かない。心が届かない。
自分で作った“完璧なパッケージ”が、逆に人を遠ざけていた。
「誰にも届かない言葉」と「誰にも触れられない顔」の狭間で、
絵理沙は問い直す。「わたしは、何を隠してた?」
やがて彼女は“整えること”を、他人のために使いはじめる。
メイクアップを職業にしたとき、
初めて、自分の顔が“誰かの笑顔を映す鏡”になる瞬間を知った。
美しさは武装じゃない。
ほんの少し、自分を好きになれる魔法かもしれない──そんな物語。
#創作大賞2025
第1章 そのままで、可愛いから
「あなたはそのままで十分可愛いのよ」
幼い頃、母にそう言われたことを、絵理沙は今でも覚えている。優しく、あたたかく、まるで毛布にくるまれるような言葉だった。実際、親戚にも近所にも「可愛い子ね」とよく言われた。髪は細くて柔らかく、肌は白かったし、笑えば愛嬌のある顔だった。
──それが、小学生までは。
小学校高学年になり、教室の空気が変わっていった。
前髪の流し方を工夫する子。リップクリームを塗る子。昼休みに鏡を見ては、髪を結び直す子。
その頃からだった。
(……なんか、私だけ地味?)
絵理沙は、鏡の中の自分と周囲の女子を見比べて、なんとも言えない不安を覚え始めた。
家に帰って、母にぽつりと聞いたことがある。 「私って、可愛くない?」
母は驚いたように笑い、「何を言ってるの、あなたはそのままで十分可愛いのよ」と言ってくれた。
そのときは、少しだけ安心した。 ──でも、どこかでわかっていた。 母の言う“可愛い”は、たぶん、“母親としての愛情”であって、 “社会の中での可愛さ”ではない。
中学に入っても、母の方針は変わらなかった。 「まだ化粧なんて必要ないでしょ」 「肌が綺麗なんだから、何もつけないほうがいい」
優しいけれど、まるで壁のような言葉だった。 誰よりも近くにいる母が、自分の「変わりたい」「可愛くなりたい」という感情を否定しない代わりに、触れてこない。
(私の“そのまま”は、今のままじゃいけない気がする)
そう思いながらも、反発することもできずにいた。 親は愛してくれている。 でも、それは「私の感じている問題」を見ようとしない愛だった。
鏡の中で、自分の顔だけが、ぼんやりと浮いていた。 どこにもはっきりと「否定」がないぶん、どこにも逃げ道がない。
──私は、何を信じればいいの?
その問いは、まだ形にならないまま、胸の奥に沈んでいた。
第2章 わたしだけ、変わらない
高校に入っても、絵理沙の見た目はあまり変わらなかった。
制服に着慣れてはいたが、髪は校則通りの黒髪ストレート、肌は日焼け止めだけ、リップすら塗らない。 親の言う「そのままで十分」という言葉を、もう信じていたわけではない。 ただ、否定する理由もなかった。
(私は、可愛くなってもいいのかな?)
そう思った瞬間、心に浮かぶのはいつも、母の声だった。 「肌が荒れるから」「似合わないわよ」「子どもがそんなことする必要ない」
言葉にすれば優しさ。でも、実際には「変わるな」という制止だった。
周囲の女子たちは、少しずつメイクを覚え、雑誌を読んで流行の服を着て、放課後にはカフェに寄っていた。 絵理沙も誘われることはあった。 でも、自分だけがどこか幼く、浮いている気がして、なぜか素直に馴染めなかった。
帰宅すれば、母が夕飯を作って待っていた。 「高校生なんだから、もっとしっかりしてほしいな」と父が冗談まじりに言えば、 「うちの子は真面目なんだから」と母が笑って返す。
家の中では、絵理沙はいつも“ちゃんとした子”だった。 何も問題のない、安心して見ていられる“そのまま”の子。
──でも、外の世界では?
「垢抜けたよね」「前より可愛くなった」
そんな言葉を、他の女子が言われているのを、何度も聞いた。 そのたびに、自分が“何も変われなかった”側であることを痛感する。
(私だって、変わりたかった)
けれど、その思いを口にすることはできなかった。 母に心配をかけたくなかったし、自分でも「贅沢な悩み」だと思っていた。
──だって、ちゃんと愛されてるのに。 ──それなのに、自分の“顔”が好きじゃないなんて、変じゃない?
高校卒業まで、絵理沙はずっと“誰かの理想の娘”として生きていた。 そのことに、怒ることも、泣くこともできなかった。
ただ静かに、心のどこかで何かが、止まっていた。
第3章 光で飛ばす、という選択
大学進学と同時に一人暮らしを始めた。
その日から、絵理沙は「変わること」が許された気がした。 母の目も、父の言葉も、もう届かない。 新しい街、新しい部屋、新しい生活。
まず買ったのは、リキッドファンデーションとビューラーだった。 化粧品売り場で、店員にメイクをしてもらったとき、 鏡に映った自分が、ほんの少し“違って見えた”。
頬がふわっと立体的に見えた。 唇が、言葉を持っているように感じた。
──私は、ちゃんとここにいる。
その感覚が、全身に広がった。
それから、メイクの勉強を始めた。 YouTube、インスタ、レビュー記事。夜な夜な鏡の前で練習した。
ハイライトの位置。ノーズシャドウの濃さ。涙袋の作り方。 それらは全部、ただの“技術”ではなかった。
「私はここにいる」って思うための、輪郭線だった。
初めての大学の講義に向かう朝。 メイクを終えて鏡を覗き込んだとき、ふと笑えた。 それは嬉しい笑いというより、「やっと誰かに見られる準備ができた」という安堵だった。
すれ違う誰かに「かわいい」と思われるかもしれない。 それだけで、世界がちょっとだけ明るく感じた。
もちろん、すぐにうまくいったわけじゃない。
生理前には肌が荒れた。 口まわりに吹き出物ができ、ファンデが浮いて、化粧ノリが悪くなった。 そういう日は、気持ちも沈んだ。
メイクをしても鏡の前で「違う」と思ってしまう。 顔というより、自分そのものが曇って見えた。
でも、それでも、整える。 自分を整えることでしか、自分を持ち直す方法を知らなかった。
鏡の前でハイライトを重ねながら、絵理沙は思った。
「光で飛ばして勝負するしかないの、わかってんの?」
その言葉が、呪文みたいに響いた。 鼻筋、頬骨、顎のライン。 陰影を操ることで、自分の“形”を主張するようになった。
そしていつしか、メイクは“習慣”ではなく、“戦闘準備”になっていた。
第4章 盛られた会話、触れない心
「お綺麗ですね」「モデルさんみたい」「服装、すごく似合ってますね」
婚活パーティーでの会話は、最初から最後まで“褒め”から始まる。
そしてたいてい、“褒め”で終わる。
絵理沙は反射で笑顔を返す。
「ありがとうございます」
──そこまではうまくいく。
問題は、そのあとだ。
「趣味とかって、何かあります?」
「最近は、カフェ巡りとかですね」
「へえ〜……そうなんですね」
会話が、続かない。
相手は目を逸らし、別の話題を探そうとする。
その沈黙の数秒が、絵理沙には“敗北”として突き刺さる。
(また、ダメだった)
メイクは完璧だった。
ハイライトの位置も、巻き髪のボリュームも、服の色味も。
一目見て「ちゃんと準備してきた人」だとわかる装い。
──なのに、なぜ?
答えは、すぐ横にいた。
隣の席では、ナチュラルメイクの女性が男性と笑い合っている。
話題は「犬、飼ってるんですか?」だった。
自然で、雑談のようで、でも楽しそうで。
(……あれで、いいの?)
ふいに、自分が“盛りすぎた化粧箱”みたいに思えた。
開けるのに躊躇して、でも開けてみたら中身が空っぽだった──
そんな存在になってしまった気がした。
そのとき、目の前の男性が静かに言った。
「カフェ巡りって、写真目的ですか? 味が好きなんですか?」
「え……どっちも、ですかね」
「どっちも、って答えが多いんですね。今日、みんなにそう返してる感じがして……」
絵理沙の胸に、じわりと熱が広がった。
喉の奥がきゅっと詰まる。
「……私、ちゃんと話してますけど?」
「そうかもしれません。でも、誰にでも通じる“答え”って、結局、誰にも届かないことが多いですよ」
彼はそれだけ言って、静かに立ち上がり、別の席へ移っていった。
しばらくして、絵理沙はグラスに目を落とした。
薄く残った口紅の跡が、グラスの縁にきれいに残っている。
それはまるで、「誰にも触れられていない証」のようだった。
──ハイライトも、アイラインも、チークも、
ぜんぶ、自分を“届けるため”に施したはずだった。
なのに、誰にも届かなかった。
トイレの鏡。
メイクは崩れていない。
でも、その顔は“選ばれる女”ではなく、
“選ばれることに失敗した女”に見えた。
スマホを取り出して、自撮りしようとした。
でも、カメラに映ったのは“戦闘用の自分”で、
今の自分とは、まったく会話ができそうになかった。
「……私、誰かと話したかったんだっけ?」
その言葉が、胸の奥にゆっくり沈んでいった。
メモアプリを開き、指が震えながら打ち込む。
──「私は、何を隠してた?」
その問いの向こうに、ほんの少しだけ、空が広がった気がした。
第5章 顔の奥にあるもの
転職のきっかけは、偶然だった。
元々、社会人として普通に働いていた。事務職。人と関わることは少なく、書類とデータと向き合う毎日だった。
きっかけは、休日に参加したメイク体験会。
モデルになった女性の顔が、仕上がるにつれてどんどん変わっていく様子を見て、
「こんなに表情って変わるんだ」と息をのんだ。
それは、整形とか修正じゃない。
ただ、まぶたに少しだけ影を加えて、唇に血色を戻して、頬に自然な光をのせただけ。
──なのに、その人の目が、明るくなった。
(ああ、私、これがやりたかったんだ)
そう思った。
“見られるため”のメイクじゃなく、“見えなくなっていた顔を、もう一度浮かび上がらせる”行為。
それが、あのときの私にとっても救いだった。
資格を取って、美容のスクールに通い直した。
はじめての現場では、緊張で手が震えた。
でも、メイクを終えたときのお客様の「ありがとう」が、じんわりと胸に沁みた。
(あの頃の私も、こうして誰かに整えてほしかったのかもしれない)
肌に触れるということは、その人の“心”にも少しだけ触れることだと、次第に分かってきた。
「最近、あんまり寝られなくて……」
「ずっとマスクだったから、肌荒れが気になって……」
ほんの一言、ぽつりと漏れる悩み。
そこに寄り添いながら、絵理沙はチークをのせていく。
ただの化粧じゃない。
その人が“今日を生きる準備”をするための儀式のようだった。
仕上がったあと、「今日、出かけてみようかな」と笑った女性がいた。
その瞬間、絵理沙は思った。
(私、やっと“可愛い”を超えることができたかもしれない)
それは、他人の笑顔を通してしか辿り着けなかった場所だった。
鏡の中に映る自分の顔も、少しだけ、許せるようになっていた。
第6章 メイクアップ
「これ、私じゃないみたい……」
初めてメイクを受けたという女性が、鏡を見つめながらそう言った。
その声には驚きよりも、どこか戸惑いと寂しさが混じっていた。
絵理沙は、そっと笑いながら応えた。
「“私じゃないみたい”って、どういう感じですか?」
少し沈黙があって──
「……なんか、“ちゃんとしてる私”って感じ」
その一言に、絵理沙の胸がきゅっとなった。
ああ、この人も、ずっと“自分じゃない自分”に追いつこうとしていたんだ──と。
それからの時間、会話はあまりなかった。
でも、髪を整え、ハイライトをぼかし、リップを調整するあいだ、
不思議な沈黙がふたりの間に流れていた。
鏡の前で、その女性は最後にぽつりと言った。
「明日、面接なんです。だから今日だけでも、自信が欲しくて」
絵理沙は微笑んで、「もう、十分素敵ですよ」とだけ返した。
それはかつて、誰かに言ってほしかった言葉だった。
でも、今はもう──自分がそれを“渡す側”になっていた。
自宅に帰って、ふと鏡を見る。
その日も疲れていたはずなのに、顔にはどこか静かな張りがあった。
(私は、誰かの「きれいになりたい」の一部になれている)
かつて“可愛くならなきゃ”と思っていた頃の自分。
誰にも届かず、空回りしていた頃の自分。
その全部が、今、誰かの笑顔に繋がっている。
整えることは、隠すことじゃなかった。
光で飛ばしても、奥にあるものが笑っていれば、それでよかった。
メモアプリを開いて、久しぶりに言葉を打つ。
──「私は、誰かと話したかった。たったそれだけだった。」
その問いに答えるように、鏡の中の自分が、ほんの少しだけ笑っていた。
