クラシックが「高尚」だった本当の意味
クラシック音楽が衰退している理由を「若者が聴かないから」で片付けるのは簡単だ。
でも、実際に起きているのは一度来た人が、二度目に来なくなるという現象だと思う。
これは年齢の問題ではない。
信頼の積み上げが起きていないだけだ。
「高尚=難しい」という誤解
クラシックはよく「高尚」「敷居が高い」「知識が必要」と言われる。
でも、ここでいう「高尚」は本来、
教養がある人向け
正解の聴き方がある
分からない人は勉強してから
という意味ではなかったはずだ。
むしろ逆で、他人の評価を必要としない音楽だった。
拍手を煽らず、流行を追わず、理解されなくても存在できる。
それがクラシックの「高尚さ」だった。
作曲家たちは選民思想なんて持っていなかった
ドヴォルザークは民族音楽を持ち込み、サティは構造も権威も笑い飛ばし、多くの作曲家は当時の「正統」から外れた存在だった。
今でいう前衛であり、異端だった。
少なくとも彼らは「分かる人だけが聴けばいい」なんて態度で音楽を書いていない。
敷居を上げたのは誰か
クラシックの敷居を高くしたのは、音楽そのものではない。
評論
教育
制度
正解の固定
これらが「価値を守る」つもりで入口を狭めてしまった。
結果、
正しく聴けているか不安
感想を言うのが怖い
好きと言うのに勇気がいる
という空気が生まれた。
音楽を楽しむ前にテストを受けさせられる感じがする。
ゲーム音楽オーケストラという反証
もしクラシックが「音楽として難しいから人が来ない」なら、
ゲーム音楽――
たとえばゼルダやドラクエでオーケストラ公演が成立するはずがない。
実際は、
知識ゼロ
主観でOK
物語が先
何度も来る
この導線で、オーケストラはちゃんと機能している。
違うのは音楽ではない。
運用と態度だ。
高尚とは何だったのか
クラシックが高尚だったのは、
理解を要求したからではなく、理解されなくても存在できたからだ。
高尚さとは、
他人の評価に依存しない
市場に媚びない
でも排除もしない
という自立性のことだった。
それを「教養の証明」や「選別の道具」にしてしまったとき、人は静かに距離を取る。
「普通に好き」でいい
クラシックは分からなくていいし、知識がなくていい。
「普通に好き」それだけで成立する音楽だったはずだ。
もしクラシックが息を吹き返すとしたら、それは評論が勝った時ではなく、音楽が音楽として扱われた時だと思う。
