意味をつける行為

意味はつけるものじゃない。認識するもの。

この一文だけで、だいたい全部説明できる。

現代はよく「意味」を求める。
仕事の意味、人生の意味、存在の意味。

でもこの問い方自体が、すでにズレている。

なぜなら、本来の順序はこうだからだ。

認知(切り出し) → 意味(立ち上がる)

人はまず世界をそのまま見ているわけではない。
連続したものの中から、何かを「切り出す」。

これが認知だ。

そして、その切り出し方によって、意味は勝手に立ち上がる。

つまり

意味は後から付けるものではなく、
認知の時点でほぼ決まっている。

では現代はどうなっているか。

順序が逆になっている。

意味(ラベル) → 認知を合わせる

先に

  • コンセプト

  • テーマ

  • メッセージ

が置かれる。

そしてそれに合うように、世界の見方(認知)を調整する。

これはもう「認識」ではない。

枠にはめているだけだ。

この状態がいわゆる「意味病」だと思っている。

意味を求めているようで、実際は

意味がない状態を処理できないから、ラベルを付けている。

だから違和感が生まれる。

言葉はある。
テーマもある。
でも何かが空洞に見える。

それは単純で

どこをどう切り出したのかが存在しないから。

例えば

「恋慕」や「哀愁」を表現したいと言う。

それ自体は間違っていない。

ただ、それが

どの認知から出てきたのかが見えないと、意味は浮く。

一方で

何かの歪みを見たとする。
違和感を感じたとする。
そこを切り出す。

その時点で、もう意味は発生している。

後から「テーマ」を貼る必要はない。

創作も同じ構造だ。

  • 先にテーマを決める

  • ジャンルを決める

  • それっぽく作る

これは意味を“作っている”状態。

対して

  • 何を切り出したか

  • どこに違和感を見たか

ここが先にある場合

意味は結果として出てくる。

だから問題は「意味があるかないか」ではない。

認知があるかどうかだ。

一言で言うと

意味病とは、認知を経ずに意味だけを持ち込むこと。

意味は必要だから作るものではない。
世界のどこを切り出したかによって、勝手に立ち上がるものだ。

そしてもし意味が見えないなら

それは意味がないのではなく

まだ何も認知していないだけかもしれない。

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