「思想を持つな」という思想──日本の創作は本当に自由なのか
最近、ある投稿を見ていて強く違和感を覚えた。
「作品=思想なのか?」
「規制が強い国では面白い作品が生まれない」
こういった言説だ。
正直、私はむしろ逆ではないかと思っている。
そもそも、思想ではない作品とは何だろう。
恋愛作品であれ、バトル作品であれ、日常作品であれ、そこには必ず作者の価値観が入り込む。
何を善とするのか。
何を悪とするのか。
誰を救済し、誰を切り捨てるのか。
その選択そのものが、すでに世界の見方であり、思想である。
つまり作品とは、多かれ少なかれ思想を帯びるものだ。
むしろ「思想がない作品」を探すほうが難しい。
ではなぜ、日本ではしばしば「思想を持ち込むな」という空気が生まれるのか。
ここに私は、日本特有の抑圧構造を感じている。
それは法的な意味での規制というより、空気の規制だ。
思想を語ると、
「面倒くさい」
「政治的すぎる」
「娯楽に主張はいらない」
そういったラベルが貼られやすい。
しかし冷静に考えれば、これは非常に奇妙な話だ。
「思想を持つな」
という主張自体が、すでに強い思想だからである。
つまり無思想を装いながら、特定の価値観を強制している。
私はこれを、思想を不可視化する思想だと考えている。
そして興味深いのは、この抑圧があるからこそ、逆に思想性の強い作品が浮かび上がりやすいという点だ。
抑え込まれれば、反発が生まれる。
空気を読むことが求められる社会では、そこから逸脱する作品ほど輪郭を持つ。
だから日本では、むしろ尖った作品、奇抜な作品、社会をえぐる作品が強く印象に残る。
それは自由だからではなく、抑圧があるからこそ可視化される反作用でもある。
本当に作品を狭めているのは、法規制よりも市場と空気の最適化なのかもしれない。
売れること。
炎上しないこと。
誰にも嫌われないこと。
そうした条件の中で、作品は少しずつ均されていく。
だが、表現とは本来、均されるためのものではない。
思想を持つな、という空気の中で、それでもなお思想を滲ませる作品こそ、今の時代に必要なのではないかと思う。
