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監獄

「わかってるよ」って言われたとき、
 何が“わかってる”のか、誰も言わなかった。

正しさと優しさのあいだで、私は黙るしかなかった。
──これは、“語られなかった沈黙”の構造を問う物語。
#創作大賞2025


第1章 ノイズのはじまり

職場の空調はいつも少し寒い。肌に張りつくような冷たさが、今日も背中を這っていた。

「この資料、もう一回まとめなおしてくれる? ちょっと、見づらいかな」

上司のその一言に、私は静かにうなずいて、手元のファイルを閉じた。 (“ちょっと”で済むなら、言わなくてもいいのに)

自分の考えや意見が、いつの間にか“空気を乱すもの”として扱われている気がして、 それを悟られないように、私は今日も丁寧に笑う。

「お疲れさまです!」 誰かの明るい声に合わせて、自分の声もつくる。 それが、私にとっての“居場所”の作り方だった。

けれど、最近。 何かが、ひどく、重たい。


第2章 スルーされる感情

「そんなに気にすることないよ」「私もよくあるよ、そういうの」

悪気なんて、きっとない。 けれど、そういう言葉をかけられるたびに、 (ああ、私は“気にしすぎな人”になっていくんだ) と、心がすうっと引いていくのがわかった。

もっと踏み込んで聞いてほしいわけじゃない。 ただ、 「それって、つらかったよね」と、 そのまま受け止めてほしかっただけだった。

“わかってるふう”の言葉が積み重なるたびに、 本当の自分の気持ちが、うまくつかめなくなっていく。

この職場は穏やかで、誰も怒鳴らない。 でも、 “黙っているのが正解”という空気だけは、 いつも正確に流れていた。

その空気の中で、私は、 だんだんと“自分の声”を置き去りにしていった。


第3章 君の優しさが痛い

「大丈夫? 無理してない?」

その声に、ふと顔を上げた。 同僚の彼女は、優しい目をしていた。 私を心配してくれているのは、わかった。 だからこそ、言えなかった。

「ううん、大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」

自分の声が、まるで他人のものみたいだった。

もし「つらい」と答えたら。 そのあと、彼女は何て返してくれるだろう?

大丈夫って、言ってくれるんだと思う。 でもそれは、たぶん本当の意味ではない。

“わかってるよ”の言葉に包まれて、 私はますます、自分の本音に触れられなくなっていく。

本当はただ、「そうなんだ」と、 答えなくても、否定しなくてもいいから、 そのままそばにいてくれたら──

そんな言葉すら、もう、口にすることができなかった。


第4章 崩れた接続

朝、目覚めた瞬間から胸が重かった。 鏡の前に立っても、自分の顔が自分のものじゃない気がした。

出社して、パソコンを立ち上げて、マウスを握る。 カーソルが震えて見える。 いや、手が震えているのかもしれない。

上司の指示が飛ぶ。 聞こえているのに、内容が理解できない。 指が動かない。目が乾いて、呼吸が浅くなる。

「あの、すみません」 誰かが声をかけてくれる。 その声に返事をしようとした瞬間、 喉が詰まった。

涙が、ひとすじ落ちた。

(やっと、止まった)

そう思った。 動きつづけることに意味がある世界で、 やっと「もう無理」と、身体が言ってくれた。

それは、静かな崩壊だった。


第5章 観測者

しばらく休みをもらうことになった。 休職という言葉が、どこか自分に似合わない気がして、口にするのが億劫だった。

それでも朝は来て、昼が来て、夕方が過ぎていく。

カフェの窓際、日が傾く頃。 私はホットコーヒーを両手で包みながら、ただじっと座っていた。

向かいの席にいた人は、私と同じように黙っていて、 何も言わなかった。 名前も知らない。

でも、その沈黙がありがたかった。 “わかろうとしない”沈黙が、今の私には一番やさしかった。

誰かにわかってもらいたかったわけじゃない。 ただ、「わかってるよ」と言われることに、もう耐えられなかっただけだ。

その人が立ち去ったあとも、私はしばらく席を立てなかった。 コーヒーはすっかり冷めていた。

でもその静けさの中で、私はほんの少しだけ、呼吸ができた気がした。


第6章 ノイズの反射

家の中は静かだった。 時計の音がカチカチと響く。カーテンが風でかすかに揺れる。

「私は」と、ノートに書いて、そこで手が止まった。

その先に続ける言葉が、どうしても浮かばなかった。 浮かぶには浮かぶのに、書くと“本当になってしまう”気がして、怖かった。

「そんなことを書くもんじゃないよ」 誰かの声が、頭の奥で囁いた。昔聞いたような、聞いてないような曖昧な声。

わかってる。誰もそんなこと言っていない。 でも、どこかでずっと、そう思って生きてきた。

言ってしまったら、誰かを困らせる。 だから黙る。

言ったところで、何も変わらない。 だから黙る。

そうしてきたはずなのに──

ノートの上の「私は」の三文字が、 何かを言おうとして言えなかった記憶を、容赦なく思い出させてくる。

思い出したくなんかないのに、 私は、言葉にならない言葉の中を、ひとりでさまよっていた。


第7章 私は、私に問い詰められる

「なんで何も言わなかったの?」

ふと、自分の中の誰かがそう問いかけてきた。 強くもなく、優しくもない声だった。ただ、避けられなかった。

「どうせ、言ったって、無駄だから」 「聞いてもらえないって、わかってたから」

私の中の声が、そう返す。 けれど──

「それ、本当に誰かに言われたの?」

その言葉に、何かが詰まった。

言われてない。 でも、そう思ってしまった。

「自分で、自分の声を潰してただけじゃないの?」

沈黙が、内側から揺れる。

「じゃあ──どうしたかったの?」

答えが出ないまま、私は目を閉じた。 けれど、そのとき、ふと浮かんだ言葉があった。

「“大丈夫じゃない”って、言いたかっただけなんだと思う」

それだけのことだった。 けれど、それが、ずっと言えなかった。


第8章 私は、そこにいた

目が覚めた朝、昨日と同じ部屋、同じ窓、同じ空。 でも私は、ひとつだけ違っていた。

「わたしは、今日、私のままでいる」

何かが変わるわけじゃない。 職場も、空気も、優しさも、正しさも、きっと変わらない。

でも私は、自分の声だけは、なかったことにしない。

「わかってるよ」って言われたとき、 なにが“わかってる”のか、誰も言わなかった。

「気にしすぎだよ」って言われたとき、 私が何に“気をしていた”のか、誰も尋ねなかった。

それでも世界は言う。「あなたが黙っていただけ」と。

理解のない批判と、理由のない理解が、 一番静かに人を壊す。

私は、今日ようやくそのことを言葉にできた。

せめて私は、誰かの沈黙をなかったことにしない。

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