結果ばかり望んで、結果を固定概念にしてショートカット化してね?

最近、「死」や「薬」を扱う音楽についての話題を見た。

そこで少し違和感があった。

いや、別に「死」を扱うなとか、「薬」を扱うなって話ではない。

むしろ問題ってそこじゃない気がしている。

個人的に引っかかったのは、

“結果”ばかりが感情として扱われてない?

ってことだ。


例えば、辛い感情を表現するとする。

孤独、責任、虚無感、関係性の崩壊、未来への絶望、逃げ場の無さ。

本来「辛い」ってかなり中身がある。

なのに現代の表現では、時々それが

死にたい
消えたい
薬で飛びたい

みたいな、

結果の言葉

で一気に圧縮される。

でもそれって、

辛さそのものなんだろうか?

個人的には違う気がしている。


「死にたい」は感情なのか?

これ、ちょっと違和感がある。

自死って、少なくとも構造として見れば

**“結果”**だ。

あるいは選択。

もしくは離脱。

そこに至るまでに、

何があったのか。

何に耐えていたのか。

何から逃げたかったのか。

何を諦めたのか。

本来そこが中身のはずだ。

なのに、

辛い

死にたい

で終わると、

途中が全部省略される。

個人的には、

感情のショートカット化

に見える。


しかも、面白いことに、

それが成立するのって

ステレオタイプがあるから

なんだよね。

僕らはもう、

「死」=深刻
「薬」=苦しみ
「消えたい」=辛い

という共通コードを持っている。

だから、

中身を説明しなくても伝わる。

でも逆に言えば、

中身が無くても成立してしまう。

ここがちょっと怖い。


もちろん、本当にそう感じている人を否定したいわけではない。

苦しさは本物だろう。

ただ、表現として見た時に、

結果だけが独り歩きして、

その前にある人間の過程が省略されていないか?

という違和感はある。

辛さって本来もっと複雑なはずだ。

孤独かもしれない。

責任かもしれない。

義務かもしれない。

誰かへの怒りかもしれない。

社会とのズレかもしれない。

なのに全部まとめて、

「死にたい」

に圧縮される。

それって、

人間理解そのもののショートカット化

でもある気がする。


最近って何でも結果を急ぐ。

成功もそう。

失敗もそう。

感情ですらそう。

でも、

結果だけ見ても、

中身は見えない。

だから思う。

もしかして僕ら、

結果ばかり欲しがって、結果を固定概念にしてショートカット化してない?

って。

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