スポーツのルール偏移から見る資本ルール

スポーツのルールは、最初から完成されたものではない。
むしろ歴史を振り返ると、
自由

ハック

ルール追加
の繰り返しである。
サッカーも元々は現在ほど細かな規則は存在しなかった。
手を使う者が現れ、
危険なプレーが現れ、
待ち伏せ戦法が現れ、
そのたびに、
「このままではゲームとして成立しない」
という理由でルールが追加されてきた。
つまりルールとは正義ではない。
ゲームを維持するための合意事項である。

資本主義も同じではないだろうか。
SEO、
アルゴリズムハック、
節税、
相互フォロー、
広告最適化。
プレイヤーは常にルールを最適化しようとする。
すると運営側は、
アルゴリズム変更、
法改正、
規約変更、
という形でパッチを当て続ける。
スポーツと全く同じ構造である。

しかし、ここで一つ疑問が生まれる。
私たちは本当にそのゲームだけをプレイしなければならないのだろうか。
「フォロワーを増やすには交流が必要」
「作品を届けるには広告が必要」
「認知されるにはコミュニティに属するべき」
こうした言説はよく聞く。
しかし、それらは法律でも自然法則でもない。
現在のゲームで有利になる攻略法に過ぎない。

賞も同じである。
音楽賞、
映画賞、
ノーベル賞。
人々はしばしば、
「受賞=価値」
だと思ってしまう。
しかし実際には、
「その賞のルールでは高く評価された」
というだけである。
スポーツのルールが変われば勝者が変わるように、
賞の評価軸が変われば受賞者も変わる。
絶対的価値ではない。

そして現代では、
お金、
フォロワー、
再生数、
賞、
これらが「資本」として流通している。
だから多くの人は、
作品そのものではなく、
資本を集めるゲーム
をプレイし始める。
作品は目的ではなく、
資本を獲得する手段へと変化する。

「資本主義社会なのだから当たり前だ」
という声もあるだろう。
しかし、
資本主義社会に住んでいることと、
資本主義の評価軸を人生の最上位に置くことは別である。
自給自足を考える人もいる。
趣味として創作する人もいる。
利益にならない研究を続ける人もいる。
彼らは資本を否定しているのではない。
資本だけを唯一のルールだと思っていないのである。

スポーツのルールはゲームを守るために存在する。
資本ルールもまた、一つのゲームを成立させるためのルールでしかない。
問題は、そのルールを世界そのものだと思い込むことだ。
資本からの脱却とは、
お金を否定することではない。
「お金が集まるものほど価値がある」という唯一の評価軸から自由になることなのかもしれない。

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