世界観を作り上げるという行為は、エントランスを装飾しているだけではないか
最近よく耳にする言葉に「世界観がある」というものがある。
作品に対して使われることもあれば、人そのものに対して使われることもある。
それ自体は褒め言葉なのだろう。
少なくとも、何も引っかからない作品に対してわざわざそうは言わない。
けれど、私はずっとそこに違和感を持っていた。
本当にそれでいいのだろうか、と。
世界観は入口でしかない
私の感覚では、世界観とは作品の本体ではない。
それは、その人がどう世界を見ているかに触れるための入口でしかない。
扉の取っ手のようなものだ。
見た瞬間に、
「この人は何か違う見方をしている」
「この人はここに違和感を持っているのか」
そう思わせる引っ掛かり。
つまり世界観とは、思考へ入るための導線であり、空気のフレームでしかない。
入口があること自体は悪くない。
むしろ必要だ。
だが、それはあくまで入口でしかない。
エントランスだけ豪華な豪邸
最近多いと感じるのは、世界観そのものを“作り上げる”ことが目的になっている状態だ。
色味を統一する。
意味深な単語を置く。
哲学っぽい言い回しを使う。
ノイズやレトロ感を演出する。
それによって「世界観がある」と評価される。
だが、それは豪邸のエントランスを豪華に装飾しているのと何が違うのだろう。
大理石の床。
シャンデリア。
香りの演出。
高級感のある照明。
入口だけ見れば確かに美しい。
しかし扉を開けた先に何もなければ、それは家とは呼べない。
本棚もない。
生活の痕跡もない。
そこに住む人の思想も見えない。
作品も同じだ。
入口だけ整っていても、その奥に何もなければ、残るものは雰囲気だけだ。
「なんか世界観あったね」
その一言で消費されて終わる。
本当に残るのは視点である
作品に残るのは、世界観そのものではない。
本当に残るのは、
その人が何をどう見ているか
という視点だ。
何に違和感を持っているのか。
何を守ろうとしているのか。
何に怒っているのか。
何を美しいと思っているのか。
そこがなければ、世界観はただの外装でしかない。
逆に言えば、視点が強ければ、世界観は自然と滲み出る。
わざわざ「これが私の世界観です」と掲げる必要はない。
作品の端々に、その人の認識が滲んでいれば、それが結果的に世界観になる。
世界観を作ることが目的化した時代
おそらく今は、入口だけで評価されやすい時代なのだと思う。
サムネイル。
最初の1秒。
最初の一文。
第一印象。
そこで判断されるからこそ、入口の装飾に意識が集中する。
しかし、入口だけを磨き続けた作品は、一度見られて終わる。
奥に部屋がなければ、誰も住み着かない。
私は「世界観を作る」という言葉に、どこか危うさを感じる。
それは本来、作るものではなく、思考の痕跡として滲み出るものではないだろうか。
エントランスだけ豪華な豪邸を作ることが、作品づくりだとは思えない。
