一般論はどこへ連れていくのか
──大通りは便利だが、目的地には辿り着かない
最近、一般論について考えていた。
よく「一般的にはこうだよね」と言われるが、その言葉は本当に指標として機能しているのだろうか。
むしろ逆に、ズレを生む構造そのものなのではないか。
■ 一般論とは何か
一般論は、多くの人に適用できるように作られている。
精度よりも範囲を優先し、
個別条件よりも平均値を取る。
言い換えるなら、
一般論とは、流通を優先するためにレーン分けを放棄した構造である。
誰でも通れる大通り。
しかしそこには、細かな分岐も、個別のルート設計も存在しない。
■ 大通りの構造
一般論は、大通りのようなものだ。
入口は広く、誰でも入れる。
道は単純で、迷いにくい。
方向もざっくり示されている。
だが──出口が雑だ。
「だいたいこの辺で降りればいい」
そんな設計になっている。
その結果、
目的地の100km手前で降ろされる
といったことが普通に起きる。
方向は合っている。
しかし場所は違う。
それでも一般論はこう言う。
「北に向かってるんだから合ってるでしょ」
■ 分岐点を認識しない構造
問題はここからだ。
現実の判断には必ず分岐点がある。
途中までは北でいい。
しかしある地点からは東に向かわなければならない。
にもかかわらず、一般論は北を指し続ける。
条件が変わっても、前提が更新されない。
その結果、
正しかったはずの指針が、誤誘導に変わる
という現象が起きる。
■ なぜズレが「ズレ」と認識されないのか
さらに厄介なのは、
ズレているのにズレと認識されないことだ。
一般論は方向を基準に判断する。
位置ではない。
だから、
「東に行くべきだ」と言った側が
「ズレている」と扱われる
という逆転が起きる。
ここでは正しさではなく、
基準に従っているかどうかが判断軸になる。
■ 事故は必然である
この構造の帰結は明確だ。
一般論は事故を防ぐためのものではない。
事故を許容することで成立している。
レーン分けをせず、
個別条件を無視し、
方向だけを示す。
その結果、
ズレは構造的に排除できない
むしろ言い換えれば、
事故は結果として必然的に起こる構造である
■ それでも一般論は使われる
では一般論は無意味なのか。
そうではない。
一般論は、
「何も分からない状態で大外しを避ける」
ためのものとしては機能する。
しかしそれはあくまで、
途中までのナビゲーション
でしかない。
目的地に到達するためのものではない。
■ 結論
一般論は安全な道ではない。
広く通すために設計された道である。
そこでは精度は犠牲にされ、
分岐は無視され、
出口は曖昧になる。
そして、
通ったように見えるだけで、
実際にはズレた場所に到達する
ということが起き続ける。
一般論とは、
ナビではなく「だいたい北」と書かれた看板である。
そしてその看板は、こうも言っている。
事故っても知らんが一般論
