現代に溢れている「反出生主義」の本質は、本当に出生への反感なのか
最近SNSで「反出生主義」という言葉をよく見かける。
けれど、投稿を追っていくと、そこで語られているものの多くは、本当に「生まれること」そのものへの批判なのだろうか。
私は少し違うように見えている。
現代に溢れている反出生主義的な言説の本質は、出生そのものへの反感というより、人間を労働資本として扱う資本主義への反感 ではないか。
たとえば、よく見かける言葉はこうだ。
子どもは将来の納税者として期待されている
少子化は労働力不足の問題としてのみ語られる
子育ては「社会を回すため」として正当化される
弱者は負担として見なされる
ここで批判されているのは、「生」そのものではない。
批判されているのは、生を機能としてしか見ない社会構造 だ。
つまり、子どもが一人の主体としてではなく、
労働力
納税者
介護要員
消費者
として数えられていることへの強い違和感である。
この違和感は、反出生主義というより、むしろ アンチ資本主義的感覚 に近い。
生まれることが悪いのではなく、生まれた人間が最初から社会の歯車として期待されることに対する反感。
ここを履き違えると、問題の根本を見失う。
出生を否定しても、社会構造のバグは残る。
本当に見直すべきなのは、「なぜ人が労働資本としてしか語られないのか」という点ではないだろうか。
私は、現代に広がる反出生的感情の多くは、生そのものへの拒絶ではなく、資本主義社会における人間の機能化への拒絶 だと思っている。
ラベルとしては反出生主義でも、実態はポスト資本主義への問いに近い。
問題は「産むか産まないか」ではなく、
生をどう扱う社会なのか
という問いにある。
