対立構造における「類は友を呼ぶ」という言葉の違和感
「類は友を呼ぶ」という言葉が、近年、対立構造の説明として使われる場面が増えている。
意見が違う者同士が激しく煽り合い、
互いを敵視し続ける集団を見て、
「結局、あれも類トモだよね」と言われることがある。
だが、この使われ方には強い違和感がある。
類は友を呼ぶは「対立」を説明する言葉だったのか
本来の「類は友を呼ぶ」は、関係が成立している状態を指す言葉だったはずだ。
継続できる
相手がいなくても自分が崩れない
違いを認識したうえで関係が保たれる
ここでの「類」とは、同じ結論や同じ価値観を持つことではない。
物事の捉え方や問いの立て方が近いこと、
つまり「考え方のくせ」が似ていることを指していた。
だからこそ、意見が違っても関係は壊れ、上下関係も生まれにくかった。
煽り合いで成立する集団は「類トモ」ではない
一方、煽り合いや敵対によって結束している集団はどうか。
相手がいないと成立しない
外部への攻撃で内部を保っている
常に緊張と不安によって駆動している
これは「友」ではない。
共通しているのは価値観でも思考の深さでもなく、敵を必要とする認識構造だけだ。
こうした集団は、似ているから集まったのではなく、それ以外が見えていないから集まっている。
対立している集団同士は「鏡像関係」に近い
煽り合う両陣営は、外見上は正反対に見える。
だが構造的には、
相手を理解しようとしない
相手を素材として消費する
同じ刺激、同じ反応速度、同じ言語構造
を共有している。
これは「類」ではなく、反転した同一構造、いわば鏡に映った関係だ。
対立が激しいほど、両者はますます似ていく。
なぜ「類トモ」と誤認されるのか
外から見ると、
言葉が似ている
熱量が高い
行動が予測しやすい
ため、「似た者同士」に見えてしまう。
だがそれは、
関係が成熟しているからではなく、
思考が省略されているからだ。
考える代わりに反応し、理解する代わりに殴り合う。
そこに「友」は存在しない。
類は友を呼ぶという言葉を、雑に使わないために
本来の意味での類トモとは、
違いを認識できる
比較や序列を作らない
対立しなくても成立する
関係だった。
対立構造の中で使われる「類は友を呼ぶ」は、この前提をすべて失っている。
それは類トモの説明ではなく、認識限界の自己集合を誤って美化しているだけだ。
おわりに
煽り合いで結束している集団を見て「類は友を呼ぶ」と言ってしまうのは簡単だ。
だがそれは、友情や関係性という言葉をあまりにも雑に扱ってはいないだろうか。
類は友を呼ぶとは、同じ敵を殴る者同士が集まることではない。
同じ問い方をし、違いを引き受けられる者同士が、静かに引き合うことだったはずだ。
