打成一片はチュートリアルである
「打成一片」とは、一つのことに打ち込み、他を忘れるほど没頭することをいう。
一般的には、美徳として語られる。
しかし、私は少し違う見方をしている。
打成一片はチュートリアルなのではないか。
創作でも研究でも、最初は雑念が多い。
SNSの評価。
他人の成功。
流行。
昨日見た動画。
次々と興味が移り、自分の軸は定まらない。
そんな状態では、何かを深く掘ることは難しい。
だから、
「まずは雑念を捨てよ」
という教えは合理的である。
しかし、その教えを最終目的にしてしまうと問題がある。
創造とは、多くの場合、
関係のないもの同士の相関関係を見つけること
だからだ。
歴史からAIを考える。
四字熟語から現代社会を見る。
ランニングから素材工学を発想する。
一見すると雑念にしか見えないものが、新しい発想の入口になる。
そもそも「雑念は悪」と考え始めた瞬間、
「雑念は悪である」
という新たな執着を抱えてしまう。
それは本当に自由な思考なのだろうか。
問題なのは雑念ではない。
雑念に振り回されることだ。
芯のない人は、
新しい刺激を見るたびに方向を変える。
しかし芯のある人は、
雑念を材料として取り込み、
必要なものだけを採用し、
不要なものは自然と流していく。
だから順番は逆なのかもしれない。
まずは打成一片によって核を作る。
そして核ができたなら、
今度は雑念を恐れず、
世界中の出来事を相関関係として組み立てていく。
打成一片はゴールではない。
思考のチュートリアルなのである。
