「興味を持たれてないだけだよ」という助言が創造性を否定していることに、なぜ誰も気がつかないのか

作品を出して反応がなかった時、よくこう言われる。

「質の問題じゃないよ」
「興味を持たれてないだけだよ」
「興味を引くようにすればいい」

一見すると優しい助言に聞こえる。

しかし、この言葉は本質的に、創造性そのものを否定している。

そして多くの人は、そのことに気がついていない。


「質の問題じゃない」は本当に肯定なのか

「質の問題じゃない」という言葉は、表面上は肯定だ。

しかしその直後に続くのは、ほぼ必ずこれだ。

「興味を引くようにすればいい」

これは言い換えるとこうなる。

「現在の形のままでは価値は認識されない」
「価値として認識される形に変換しなければならない」

つまり、現在の創造の形は、そのままでは存在として認められない。

これは質を否定していないようでいて、実際には存在条件を外部基準に従属させている。

「興味」とは何か

ここで重要なのは、「興味」は創造の内側ではなく、外側に存在するということだ。

興味とは、観測者の状態であり、創造物の性質そのものではない。

同じ作品でも、

ある時代では無価値とされ、
別の時代では価値とされる。

これは作品が変わったのではなく、観測側が変わっただけだ。

それにもかかわらず、「興味を引くようにすればいい」という助言は、

創造物ではなく、創造者側が変わるべきだと前提している。

最適化とは、評価関数への従属である

「興味を引くようにする」というのは、別の言葉で言えば「最適化」だ。

最適化とは、既存の評価関数に適合することを意味する。

ここで暗黙に固定されているのは、評価関数そのものは変わらないという前提だ。

つまり、創造は評価関数に適合すべきであり、評価関数が創造によって変わることは想定されていない。

しかし創造の歴史は、その逆によって進んできた。

写真は絵画の評価基準を変えた。
電子音楽は音楽の定義を変えた。
DAWは制作の意味を変えた。

最初はすべて「最適化されていない」と見なされていた。

興味に合わせることは、創造の目的ではない

興味に合わせることは、可視性を上げるための戦略にはなる。

しかしそれは、創造の目的とは別の行為だ。

創造とは本来、未知の構造を生成することだ。

未知の構造は、既存の評価関数では評価できない。

評価できないからこそ、新しい構造として存在する。

もし最初から評価可能な形に変換してしまえば、それは未知ではなくなる。

優しさの形をした否定

「質の問題じゃない」という言葉は、優しさの形をしている。

しかしその実態は、現在の評価系に適合しないものは存在として認めない、

という条件付きの存在許可である。

これは意図的な否定ではない。

むしろ多くの場合、無自覚に発せられている。

だからこそ厄介だ。

創造は、興味の後に来るのではなく、興味の前に存在する

興味は創造の原因ではない。

結果でもない。

単なる観測の状態だ。

創造は、観測の有無に関係なく存在する。

観測されないからといって、存在していないわけではない。

興味を持たれていないという理由で創造を変える必要はない。

それは創造を最適化することではなく、創造を既存の構造に還元することだからだ。

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