謙譲語と隷属 ― 言霊が作る序列
「恐惶謹言」
この言葉は一般的には「最大級の敬意を表す表現」と説明される。
しかし、本当にそうだろうか。
「恐惶」とは、文字通り「恐れかしこまる」という意味である。
つまり、その根底には「相手を恐れる」という感情が存在する。
私はここに違和感を覚える。
敬意とは何か
敬意とは、相手を人格として尊重することである。
ならば、本来は対等な主体として向き合うことが敬意なのではないか。
一方で、
恐れ入ります
僭越ながら
身の程をわきまえて
恐惶謹言
これらは、自らを下位に置くことを前提としている。
これは「相手を尊ぶ」のではなく、
「相手を自分より上位の存在として扱う」
という態度でもある。
私はこれを敬意とは少し違うものだと考える。
形式化すると主体性は消える
仮に最初は生存戦略だったとしよう。
絶対的な権力者に対して率直な意見を述べれば処罰される。
だから、
「恐れながら申し上げます」
という形式が生まれた。
しかし、その形式が何百年も繰り返されると、
理由は失われ、
「そう言うものだから」
という文化だけが残る。
つまり、
主体的に選んだ謙譲ではなく、無意識の謙譲
になる。
そして序列は言葉によって再生産される。
言霊とは何か
私は言霊を超常現象だとは考えない。
言霊とは、
言葉に宿る意味が、反復によって人間の認知を方向付ける現象
である。
毎日、
「恐れます」
「身の程をわきまえます」
と言い続ければ、
その意味は無意識に自分へ返ってくる。
逆に、
「私はこう考える」
「私は責任を負う」
という言葉を使えば、
主体性もまた形成される。
言葉は単なる音ではない。
意味を持つ以上、人間はその意味に引っ張られる。
これが私の考える言霊である。
秩序は本当に文化を発展させたのか
秩序は安定をもたらす。
しかし、文化や技術を発展させたのは秩序そのものだったのだろうか。
むしろ、
既存の秩序への違和感、
権威への反発、
形式への挑戦、
そこから新しい文化や技術は生まれてきたように思える。
そう考えるなら、
秩序の功績は文化を発展させたことではない。
秩序が反発を生み、その反発が文化を発展させた
という皮肉な見方もできる。
結論
謙譲語は礼儀として機能する場面もある。
しかし、それが形式化し、形骸化し、無意識に使われ続けるなら、
そこには「敬意」だけではなく、
序列を再生産する言霊
も宿る。
本当の敬意とは、
自分を下げることではない。
相手を対等な主体として認め、
自らも主体として責任を持って語ることなのではないだろうか。
