「重い曲が苦手」は成立しないと思っている
最近よく見る言葉に、ずっと引っかかっている。
「歌詞が重い曲は苦手」
「軽く聴ける音楽が好き」
「これは評価高いから良い音楽」
でもこれ、よく考えると少しおかしい。
評価は“聴いた後”にしか生まれない
音楽って、本来こういう順序のはずだ。
何も知らずに聴く
身体や感情が反応する
そこで初めて「重い」「軽い」「好き」「合わない」が生まれる
評価は体験の結果であって、入口じゃない。
なのに今は、
聴く前に「重い曲」
聴く前に「評価が高い」
聴く前に「これはちゃんと向き合うやつ」
というラベルが先に置かれていることが多い。
「重い曲が苦手」という言葉の矛盾
もし評価を何も知らずに曲を再生したとしたら、リスナーは自分の感覚でしか判断できない。
それなのに、「重い曲が苦手」という言葉が成立するのは、すでに誰かの評価を飲み込んでいる場合だけだ。
本当は、
「今これを聴いて、少し疲れた」
「今日はあまり入ってこなかった」
この程度の言い方しかできないはず。
「重い」「軽い」は、自分が聴いたあとに付けるラベルであって、先に持つ前提条件ではない。
真面目に聴いてない人ほど「ちゃんと聴いてるフリ」をする
よくある言い回しに、
「歌詞が重いから覚悟して聴く」
「ちゃんと受け止めないといけない音楽」
というものがある。
でもそれって、音楽を聴いているというより課題文を読む姿勢に近くないだろうか。
皮肉な話だけど、
「重いな」
「薄いな」
「よく分からないな」
と感じた時点で、その人はもう十分に真面目に聴いている。
真面目に聴いていない人は、そもそも何も感じない。
ラベリングは理解のための道具であって、入口じゃない
ジャンル、評価、文脈、方向性。
これらは本来、
何度か聴いたあとに
整理のために使う圧縮データ
のはずだ。
でも今は、
ラベルを確認する
↓
想定通りかどうかを照合する
という聴き方が主流になっている。
それはもう「聴く」というより、答え合わせに近い。
なぜみんな評価を外注するのか
理由は単純だと思う。
音楽が多すぎる
時間が足りない
判断コストを下げたい
だから人は、「誰かが決めた地図」を使いたくなる。
でもその代償として、
自分の感覚が育たない
「分からない」=「ダメ」になる
聴く前から感想が決まってしまう
という状態が生まれる。
結局、音楽はもっと雑に聴いていい
流し聴きしてもいい
途中で止めてもいい
重いと感じてもいい
薄いと感じてもいい
その感触こそが、唯一“自分のもの”と言える評価だ。
ラベルは後からでいい。
他人の評価を知らなくても、音楽は成立する。
むしろ、その状態でしか音楽はちゃんと聴けない。
もしこれを読んで少し引っかかったなら、それはたぶん、自分の感覚をまだ手放していないということだと思う。
それだけで、十分だ。
