テンション
「年収◯◯万円以上」──その条件表が、莉奈の生きる地図だった。
幼い頃、父の会社は倒産し、母は持病を悪化させた。
愛情はあった。それでも、家庭は壊れていった。
だから莉奈にとって、「結婚は安定」なんかじゃない。
“安心できる場所に身を置く”ことそのものが、人生の目的だった。
条件を磨き、外見を整え、婚活に臨む。
でも、年収を聞いた瞬間に引かれる目。
「安心したいだけなのに」と思う心が、
「お金目当ての女」というレッテルとすれ違っていく。
──私、ずっと張り詰めてたんだ。
誰にも頼らないことで、自分を守ってたんだ。
副業を始め、自分で稼ぎ始めたとき、
莉奈の中に少しだけ余白が生まれた。
安心は、誰かに与えてもらうものじゃなかった。
そしてそのとき、初めて「誰かと一緒にいたい」と思えた。
これは、“張り詰めた人生”から、“共にある余白”へとほぐれていく、ひとりの女性の解放の記録。
#創作大賞2025
第1章 静かな崩壊
莉奈の家は、最初から壊れていたわけじゃなかった。
小学校に上がる少し前までは、家族三人でのんびりした日常があった。
父は自営業をしていて、母は体が弱かったけれど、家の中は温かかった。
誕生日には小さなケーキを買ってもらい、母の作ったごはんを「おいしい」と言うだけで喜んでくれた。
だからこそ、あの“静かな崩壊”は、莉奈の記憶のなかでずっと異質なままだ。
ある日を境に、家の空気が少しずつ変わった。
父の声が荒くなる日が増え、母の咳が止まらなくなり、郵便受けに赤い紙が増えていった。
何かを感じ取ったのは、たぶん五歳の終わり頃。
「お金のことは心配しなくていいのよ」
母はそう言ったけれど、そう言う人の顔じゃなかった。
それからしばらくして、莉奈の家は引っ越した。
知らない土地、狭いアパート、畳のにおい、風の抜けない部屋。
母の通院は増え、父は朝から晩まで働くようになった。
でも、生活は楽にはならなかった。
莉奈は、一人っ子だった。
両親の会話は、怒号に変わる前にいつも止まり、代わりに沈黙が家を満たしていた。
──あれは、崩壊というより、「静かに沈んでいく感じ」だった。
テレビの音も、鉛筆の書く音も、自分の息づかいでさえ、部屋に響くようになった。
それが怖くて、莉奈は声を出さなくなった。
父が何を失ったのか、母がどれだけしんどかったのか。
子どもだった莉奈には、わからなかった。
でも、「家族がずっと緊張している」ことだけは、はっきり感じていた。
その緊張がどこからくるのか。
そして、どうしたら解けるのか。
わからなかった。
だから莉奈は、その日から“自分が泣かないことで保てる均衡”を守り続けた。
それが、彼女の最初の“条件反射”だった。
第2章 家族ごっこ
「うちはふつうだよ」
そう言うことに、莉奈は早くから慣れていた。
小学校では、友達の家に遊びに行くたびに、
カーペットの柔らかさや、冷蔵庫の大きさ、洗面所の明るさに驚いた。
でも、それを言葉にしたことはなかった。
「お母さん元気?」と聞かれても、
「うん、まあね」と笑って返せるようになっていた。
本当は毎月病院に通っていたし、たまに寝込んで起きられない日もあった。
でも、誰にも言わなかった。
言ったところで、何が変わるのかわからなかった。
学校では明るく、まじめで、先生の言うことをよく聞く子。
家では静かに、無理せず、手間をかけない子。
誰からも迷惑をかけず、気づかれずに、ちゃんと「家族っぽく」やっている。
それが莉奈の中の“ふつう”になっていた。
時々、父がいらだちをぶつけるように無言になる夜があった。
母がこっそり泣いている日もあった。
でも莉奈は、気づかないふりをすることが“やさしさ”だと思っていた。
家族とは、誰かが気を張ることで成り立つもの。
その役割を自分が引き受けるのは、当然のこと。
──それが、莉奈にとっての「家族ごっこ」だった。
第3章 正解主義
高校に入ると、周囲は急に「将来」を口にし始めた。
進学か、就職か。
文系か、理系か。
どの高校にもよくある“進路指導”の空気の中で、莉奈は静かに「答えのある方」を選んでいった。
奨学金の申し込み、推薦を狙える科目配分、受験のスケジューリング。
すべてが、“将来の正解”のためにあった。
友達が「彼氏ができた」とはしゃいでいる頃、
莉奈は深夜のファミレスでバイトしていた。
家の生活費にあてることもあったし、将来を考えると貯金しておきたかった。
──でもそれ以上に、莉奈の中には「安心の見積もり」が常にあった。
誰かを好きになるのは自由だ。
けれど、自分が誰かに甘えるには、それなりの“根拠”が必要だと、どこかで思っていた。
大学に進学してからも、その感覚は抜けなかった。
恋愛の会話のなかで「年収」や「職業」が出てくると、
少しだけ安心する。
それを気にする自分を、冷たいと思ったことは何度もある。
でも──安心よりも“揺れる恋”を選ぶ勇気は、なかった。
「条件で人を見てるよね」
ある友達に言われたことがある。
莉奈は、笑って「かもね」と返した。
それが、唯一の答えだった。
感情よりも安定、運命よりも設計。
それが莉奈の“正解主義”だった。
第4章 安全圏の設計図
社会人になった莉奈は、結婚相談所に登録した。
担当者に言われた。「条件は、率直に書いてくださいね」
だから莉奈は、迷わず書いた。
年収、職業、学歴、家族構成──自分にとっての“安心の方眼紙”。
プロフィール写真はプロに撮ってもらい、
清潔感と落ち着き、ほんの少しの華やかさを意識した。
服装も、髪型も、ネイルも、すべて「安心される女性」を意識して整えた。
でも──その「整い」は、
どこかで“自分自身に向けたおまじない”でもあった。
相手に安心してもらいたいのではない。
「私は大丈夫だよ」と、自分に言い聞かせるための装いだった。
条件を提示すれば、相手からも誠実な姿勢が返ってくるはずだ。
そんなふうに思っていた。
けれど、現実は違った。
ある日、マッチングした相手から言われた。
「年収の話って、初対面でするもの? ちょっと怖いよ」
莉奈は、その言葉に答えられなかった。
怖いのは、こっちなのに。
安心できないのは、ずっと、こっちだったのに。
でも、言えなかった。
そんなことを言っても、理解されないとわかっていたから。
──条件とは、安心を得るための設計図。
でもそれが、誰かを拒むための壁になっていることにも、莉奈は気づいていた。
第5章 値札の向こう
婚活イベントの帰り道、莉奈は一人でカフェに入った。
さっきまで向かい合っていた男性に、最後こう言われた。
「なんか、全部条件で人を選んでる感じがする」
柔らかい口調だった。責めるような声音ではなかった。 けれど、その言葉が、なぜか強く突き刺さった。
「それって、ダメですか?」と返した声は、自分でも驚くほど硬かった。
「ダメじゃないです。でも、なんか寂しくなっただけ」
彼は笑って、空気のように立ち去った。
莉奈は何も言えず、手元のアイスティーを見つめていた。 氷が溶けて、味がぼやけていくのが、妙にリアルだった。
自分は、何がしたかったんだろう。 安心がほしかったはずなのに。 条件を並べたその先に、何があると思ってた?
「選ばれたかった」のではなかった。 「選ばれなかった自分に戻りたくなかった」だけだった。
家族に遠慮して、学校で気を張って、恋愛でも先回りして、 そうやって“外されない場所”をずっと探してきた。
条件を出せば、少なくとも自分を失わずにいられると思っていた。 でも──その値札の向こうには、誰も近づいてこなかった。
「わたし、ちゃんと笑ってたかな」
独り言のように呟いてみる。 ふと、カバンの中から折り畳んだ条件表を取り出し、見つめた。
端が少し折れて、文字のインクがこすれていた。 何度も書き直した証拠。
──条件は、安心のために作ったものだった。 でも、いつの間にか「誰にも傷つけられないようにするための壁」になっていた。
莉奈は、条件表を静かにたたみ直し、バッグの奥にしまった。
第6章 余白という贅沢
しばらく婚活を休んだ。
誰かと出会うことに疲れたのではない。 「自分で作った自分」と会い続けることに、限界を感じていた。
莉奈は、副業を始めた。SNSで少しずつ発信しながら、小さな販売と交流を積み重ねていく。 初めて、「稼ぐ」ということが、自分の安心に直接つながると実感できた。
相変わらず不安はある。 でも、それは“誰かの肩書きに委ねた安心”とは違う。 自分で作った小さな土台に、少しずつ重ねていく不安なら──ちゃんと支えられる気がした。
ふと、部屋の引き出しの奥にあった条件表を見つけた。
──年収600万以上、大卒、正社員、実家暮らしでないこと。
どれも、自分が「怖かった過去」から生まれた項目だった。 でも、もういいと思った。
安心は、与えられるものじゃない。 自分で築いた安心があるからこそ、 初めて「誰かと一緒にいたい」と思える余白が生まれる。
莉奈は、そっと条件表を二つに折って、引き出しに戻した。
もう見返すことは、たぶんない。 でも、あの紙に詰まっていた過去も、自分を守ろうとした証だったと思える。
誰かと並んで歩く未来を、焦らず、拒まず、少しだけ楽しみにできる。
それだけで、今は十分だった。
