孟母三遷は個人の美談なのだろうか

孟母三遷は、
「子どもの教育のために母親が三度引っ越した。」
という故事として知られている。

一般には、
「良い親は教育環境を整えるべきだ。」
という教訓として語られることが多い。
しかし、現代の人権国家で考えると、この故事は別の問いを投げ掛けているように思う。

孟母は環境を変えた。
墓地から市場へ。
市場から学校の近くへ。
つまり、
環境が人を育てる。
という考え方である。
私はこの考え方自体を否定するつもりはない。
実際、人は住む場所、出会う人、触れる情報によって大きく影響を受ける。

しかし現代では、その環境は誰が整えるべきなのだろうか。
もし教育環境が重要なら、
良い学校へ行けるかどうかが親の収入だけで決まる社会は、本当に望ましいのだろうか。
学習塾。
進学校。
教育資源。
静かな住環境。
これらは現実には資本によって大きく左右される。
すると「努力で勝ち取る社会」と言いながら、
出発点そのものが環境によって決まってしまう。

ここで孟母三遷は、個人の美談ではなくなる。
むしろ、
環境を整えることは国家や社会の課題ではないか。
という問いへ変わる。
人権国家とは、
個人の自由を保障するだけではない。
教育を受けられる環境。
安全に暮らせる環境。
挑戦できる環境。
そうした「可能性」を支えることもまた、その役割の一つである。

もちろん、環境を整えれば全て解決するわけではない。
人は最後には自分で選択する。
しかし、
その選択肢そのものが環境によって狭められているなら、
「自己責任」だけでは説明できない。

孟母三遷は、
「親は頑張りましょう。」
という話ではないのかもしれない。
現代に置き換えるなら、
「子どもの未来を左右する環境を、親の資本だけに委ねてよいのか。」
という、人権国家が考え続けるべき命題として読むこともできるのではないだろうか。

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