妙計は奇策の成れの果て

「妙計奇策」という四字熟語がある。
一般には「他人には思いつかないような優れた計略」と説明される。
しかし、この言葉を眺めていて少し違和感を覚えた。
本当に妙計と奇策は並列なのだろうか。
むしろ因果関係が逆なのではないかと思うのである。


奇策は最初から妙計ではない

歴史を見れば、多くの革新的な戦略や発想は、実行される前から妙計と呼ばれていたわけではない。

むしろ、
「無謀だ」
「危険だ」
「理解できない」
「失敗するに決まっている」
そう評価されることの方が多い。
つまり、その段階では奇策なのである。

誰も思いつかなかったから奇策。
誰も理解できなかったから奇策。
誰も賛同しなかったから奇策。
そこに妙計という評価はまだ存在しない。

妙計は結果によって生まれる

奇策が成功したとき、人々はその計略を振り返って「妙計だった」と呼ぶ。

逆に失敗したときは「愚策だった」と呼ぶ。
同じ行為であっても結果によって評価が変わる。
つまり妙計とは計略そのものの性質ではなく、結果によって後から与えられる称号なのである。
成功した奇策は妙計になる。
失敗した奇策は愚策になる。

そう考えると、
「妙計は奇策の成れの果て」
という見方もできる。

奇策を狙うと失敗する理由

さらに面白いのは、奇策をやろうとして奇策を行う人ほど失敗しやすいことである。
なぜなら目的が逆転しているからだ。

本来は、
目的がある。
制約がある。
解決策を考える。
その結果として他人と違う手段に行き着く。

しかし奇策を目的化すると、
奇抜であることそのものが目的になってしまう。
その結果、合理性を失う。

だから成功する奇策の多くは、当人からすると奇策ですらない。
本人はただ目の前の問題を解決しようとしているだけである。
周囲から見て初めて奇策に映る。

奇策は自己認識ではなく他者認識

成功する奇策の当事者は、しばしば自分を奇策家だと思っていない。
本人にとっては最も自然で合理的な選択だったからだ。

ただ、その前提条件や制約が他人には見えていない。
だから周囲は驚く。
「なぜそんなことをするのか」
と。
そして成功した瞬間だけ、
「さすがだ」
に変わる。
さらに時間が経つと、
「最初から妙計だった」
という歴史へと書き換えられる。

妙計を求める者は妙計を得られない

妙計を考えようとしても、妙計は作れない。
人間が作れるのは奇策だけである。
妙計という評価は未来が決める。

だから革新とは、奇策を考えることではなく、目の前の問題を徹底的に考え抜くことなのかもしれない。

その結果として誰も歩かなかった道を歩くことになったとき、人は後からこう呼ぶ。
「あれは妙計だった」と。

いいなと思ったら応援しよう!