択言択行 ― 善悪を選ぶ社会
「択言択行」とは、善悪を見極めて言葉や行動を選ぶことである。
辞書を引けば、それは慎重さや思慮深さとして説明される。
確かに衝動的に動くよりは、一度考えてから発言し、行動する方が望ましいだろう。
しかし私は、この言葉に現代社会の根深い価値観を見てしまう。
それは「善悪を先に定める」という発想である。
善を選べ。
悪を避けろ。
正しい手順で行え。
間違った方法は選ぶな。
前例を確認しろ。
経験者に聞け。
失敗するな。
そうした教えは、一見すると合理的に見える。
だが、その先にあるものは何だろうか。
失敗は悪である。
そう考える社会では、失敗を避けることが善になる。
すると人々は未知を避ける。
前例を求める。
正解を探す。
既に成功した方法だけを選ぶ。
誰もやったことのないことは「危険」と呼ばれ、
結果のわからない挑戦は「愚行」と呼ばれる。
だが、本当にそうだろうか。
人類の歴史は失敗の歴史でもある。
農業も、航海も、科学も、技術も、
誰かが結果のわからない行為に踏み出したから生まれた。
失敗が悪なら、
発明もまた悪であったはずだ。
未知のものは、やってみなければわからない。
仮説を立てる。
試してみる。
思った結果が出ない。
修正する。
再び試す。
そこには成功も失敗もある。
しかしそのどちらも結果である。
失敗とは悪ではない。
想定した結果を得られなかったという事実に過ぎない。
択言択行が慎重さを意味するなら、それ自体を否定するつもりはない。
だが、その思想が極まった社会は、
善悪を先に決め、
失敗を許さず、
前例だけを善とする。
そして人々は選択しているつもりで、
実際には正解探しをしているだけになる。
選択とは本来、未知の中から道を選ぶ行為である。
結果がわかっているなら、それは選択ではない。
確認作業である。
だから私は思う。
善悪を選ぶ前に、
まず因果を見よ。
正誤を裁く前に、
まず意図を見よ。
失敗を責める前に、
まず得られた結果を見よ。
選択とは、
正解を探すことではない。
未知に向かって踏み出すことなのである。
