娯楽しか価値を持たないように見える世界の正体
最近、何を見ても「面白いかどうか」でしか評価されていない気がする。
別にそれ自体はいい。
娯楽が存在する理由は最初からそこにある。
問題は、娯楽が強いことじゃない。
娯楽しか評価されない構造になっていることだ。
娯楽という言葉は、本来「緊張を緩めるためのもの」だった。
つまり、人間は何かしらの圧を受けていて、
それを一時的に逃がすために娯楽がある。
ここまでは普通の話だ。
ただ、今起きているのは少し違う。
圧の処理構造が単線化している。
本来、人間には2種類の処理がある。
外部に逃がす(娯楽・対話)
内部で変換する(思考・言語化・創作)
前者は「逃がす」だけで、後者は「変える」。
今の状態はこうなっている。
外部に逃がす回路だけが肥大化して、内部で処理する回路がほぼ使われていない。
これを構造で言うと、常時開放バルブ状態だ。
圧がかかる
→ 即抜ける
→ 溜まらない
一見すると安定しているように見える。
でも実際は違う。
本来必要な圧すら保持できていない。
圧は単なるストレスじゃない。
違和感
疑問
不快さ
引っかかり
こういうものは、本来なら内部で処理されて
思考や表現に変換される。
しかし常時開放状態だと、
圧 → 即排出
になる。
結果、何も変換されない。
だから、表面に出てくるものは軽くなる。
軽いから悪いわけじゃない。
ただ、構造的にそうなる。
ここでよくある誤解がある。
「娯楽が悪い」という話ではない。
娯楽は必要だ。
圧を逃がす機能がなければ人は壊れる。
問題は、それしかない状態だ。
もう一つ、別の構造がある。
今の環境では、マスのフィルターを通過しないと、そもそも届かない。
このフィルターは中身を見ない。
タイトル
雰囲気
ラベル
で処理する。
つまり、内容ではなく形式で弾く
だから何が起きるか。
深いものが評価されないわけじゃない。
そもそも通過しない。
ここで選択が発生する。
フィルターに合わせるか。
合わせないか。
別にどっちが正しいとかはない。
ただ仕様があるだけだ。
この仕様に対して一つだけ言えることは、中身と通過条件は別物だということ。
通すために中身を変える必要はない。
ただ通過するための形式を持つかどうかだけの話だ。
それをやるかどうかは好みだ。
ただ一つだけ確かなことがある。
今の世界は、娯楽が価値を持ったわけじゃない。
娯楽しか測れなくなっただけだ。
その結果として、常時開放バルブのような状態が増えている。
圧がなければ人は壊れない。
でも同時に、何も生まれなくなる。
別にそれでいいならそれでいい。
ただ、その構造だけは変わらない。
