国外に出た人たちを「難民」と一括りにする風潮は、本当に安全なのか
最近、ベネズエラをめぐる文脈で「難民が約800万人いる」という数字が、かなり前面に出て語られている。
もちろん、人道的な危機が存在すること自体を否定するつもりはない。
ただ、その語られ方には、どうしても引っかかるものがある。
それは、国外に出た人たちを一律に「難民」と呼んでしまっていいのか、という点だ。
「国外に出た」という事実だけで、同じ立場なのか
国外に出た人たちの中には、本当に命や生活を守るために、選択肢がなく逃れた人もいる。
一方で、
国外移動に必要な資本を持っていた人
海外との接続(仕事・資産・人脈)をすでに持っていた人
政治や経済の変化を察知し、早期に国外退避できた人
も、同じ「国外に出た人」という枠に含まれている。
この二つは、同じ移動でも性質がまったく違う。
それを一括りにして「難民」と呼んでしまうと、
社会の中で何が起きていたのか、どの層がどんな役割を担っていたのかが、一気に見えなくなる。
「逃げられなかった人」は、どこへ行ったのか
もう一つ、気になっていることがある。
国外に出られた人たちが可視化される一方で、
国内に残らざるを得なかった人たちは、ほとんど語られない。
移動資金がなかった人
高齢者や子どもを抱えていた人
インフラが壊れていく中で、その現場を支え続けた人
こうした人たちは、「難民」という言葉の陰で、語りの外に追いやられている。
しかし現実には、インフラ崩壊や生活困難のコストを最も引き受けてきたのは、むしろこの「出られなかった層」ではないだろうか。
資本と政権交代の順序は、逆だった可能性もある
個人的には、反米を掲げる政権が生まれたという事実そのものが、それ以前の資本主義的運用への強い不満を示しているようにも見える。
つまり、
政権交代が起きたから資本が逃げたというよりも、
資本が国内を育てず、内部を空洞化させた結果、その歪みが政権交代として噴き出し、さらに資本層が国外退避した
という因果関係のほうが、人間の行動としては素直に見える。
もしそうだとすれば、国外に出られた人たちの中に、過去の資本構造の一部を担っていた層が含まれていたとしても、不思議ではない。
「難民」という言葉が隠してしまうもの
ここで言いたいのは、誰かを断罪したい、という話ではない。
問題なのは、「難民」という言葉が、異なる立場・異なる責任・異なる移動を一つの物語にまとめてしまうことだ。
それは人道的に見えて、実は、
誰が語り手になっているのか
誰がコストを引き受けてきたのか
どこで社会が壊れていったのか
という構造的な問いを、最初から封じてしまう危うさを持っている。
問いとして残しておきたいこと
国外に出た人たちを、無条件に「被害者」としてのみ扱う語りは、本当に妥当なのか。
そして、
国内に残らざるを得なかった人たちの存在を無視したまま、「国家崩壊」や「人道危機」を語ってしまっていいのか。
この問いは、ベネズエラだけの話ではない。
資本が自由に国境を越え、責任を引き受けないまま移動できる時代において、私たちは「誰を難民と呼んでいるのか」を、もう一度慎重に考える必要があるのではないかと思っている。
