「逃げるが勝ち」は本当に敗北なのか走為上は「認知フレームから離脱する」計略である
「逃げる」は本当に負けなのか
三十六計最後の計である「走為上(そういじょう)」は、
「勝てないなら逃げよ」
あるいは、
「逃げるが勝ち」
と説明されることが多い。
もちろん、それも間違いではない。
しかし、この計略を認知科学の視点から見ると、単なる撤退論ではなく、
相手が作った認知の土俵から降りる計略
として読み解くことができる。
人は与えられた土俵で考えてしまう
人は問題を提示されると、その前提を疑わずに考え始める傾向がある。
例えば、
「AとB、どちらを選ぶか。」
と問われると、多くの人はAかBかを考え始める。
しかし、本当に必要なのは、
「そもそもAとBのどちらかを選ばなければならないのか。」
という視点かもしれない。
人間は、一度認知フレームが与えられると、その枠組みの中で最善を探そうとする。
しかし、
最善の答えが「ゲームに参加しないこと」である場合も存在する。
走為上とは「認知フレーム」から降りることである
走為上は、
「戦って勝つ」
という発想の延長にはない。
むしろ、
戦うという前提そのものを手放す
計略である。
勝敗を競う土俵に立っている限り、そのルールは相手にも利用される。
だから、ときには
戦わない。
競争しない。
議論しない。
撤退する。
という選択が、最も合理的になる。
つまり走為上とは、
相手が設計した認知フレームから離脱する計略
なのである。
現代社会にも存在する「撤退できない罠」
しかし、人は簡単には撤退できない。
なぜなら、
「逃げるのは恥だ」
「ここまで続けたのだから」
「今やめたら負けになる」
「努力は最後まで続けるべきだ」
といった認知が働くからである。
これらは、
サンクコスト効果(埋没費用)
や
損失回避
などの認知バイアスとも深く関係している。
本来なら撤退した方が合理的であっても、
「負けたくない」
という感情が判断を歪めてしまうのである。
本当に重要なのは「自分で選ぶ」ことである
走為上が教えているのは、
「逃げろ」
ということではない。
大切なのは、
自分が今、どの認知フレームで考えているのかを認識すること
である。
戦うのもよい。
逃げるのもよい。
重要なのは、
「戦わなければならない」
という前提に無意識で縛られないことである。
相手が作った土俵に乗り続けるのか。
それとも降りるのか。
その選択権を自分で持つことこそが、走為上の本質なのである。
おわりに
走為上は、「逃げるが勝ち」という単純な教えではない。
認知フレームそのものから離脱し、自分で選択権を取り戻す計略
なのである。
三十六計は、多くの計で相手の認知を操作する方法を示している。
しかし最後の計だけは少し違う。
最後に示されるのは、
「相手の認知ゲームに参加しない自由」
である。
だから私は、走為上を単なる撤退ではなく、
「認知フレームを認識し、自ら選択するためのメタ認知の計略」
として読み直すことができるのではないかと考えている。
勝つことよりも先に、
「何に参加し、何から降りるのか。」
その選択こそが、人間に与えられた最も大きな自由なのかもしれない。
