SNSのエコーチェンバーはドッペルゲンガーだと思う
ドッペルゲンガーって、
今だとホラーとか都市伝説の文脈で扱われることが多い。
「自分と同じ姿の存在を見ると死ぬ」とか、
怖い話として消費されがちだ。
でもこれ、本当に言いたかったのはそこじゃない気がしている。
ドッペルゲンガーが広まったのは、18〜19世紀のヨーロッパ、いわゆる近代の入り口だ。
この時代は、
国家
官僚制
教育制度
都市化
が一気に進んで、人が「個人」ではなく役割や機能として扱われ始めた時代でもある。
つまり、「人が同じ型に回収されていく」ことへの不安が、わりと露骨に存在していた。
ドッペルゲンガーは、その不安をホラーとして可視化した存在だったんじゃないかと思う。
「自分と同じ存在が現れる」
これって、肉体が増えることが怖いんじゃなくて、
自分である理由が分からなくなる
個人としての必然性が消える
主体が溶ける
そういう心理的な死の暗喩だったんじゃないか。
「三体見たら死ぬ」という話も、よく考えると意味深だ。
一体なら錯覚かもしれない。
二体ならまだ異常として処理できる。
でも三体になると、「どれが本物か」という問い自体が無意味になる。
主体が崩れる。
で、これを今に引き寄せて考えると、一番しっくり来るのがSNSのエコーチェンバーだ。
エコーチェンバーでは、
同じ意見
同じ感情
同じ怒り方
同じ正義感
が、反射して、増幅して、返ってくる。
タイムラインを見る。
リプ欄を見る。
引用を見る。
全部、ほぼ同じことを言っている。
これって、意見と感情のドッペルゲンガーに囲まれている状態に近い。
エコーチェンが増えれば増えるほど、個性は死んで、集団になる。
ここで言う個性は、
キャラが立ってるとか
変わってるとか
才能があるとか
そういう話じゃない。
もっと手前の、
なんか引っかかる
言葉になる前の違和感
理由の分からない感情の揺れ
そういうもの。
エコーチェンは「どう感じるべきか」を先に提示するから、感情の出所が自分じゃなくなる。
感情が無くなるわけじゃない。
感情が外注される。
それは、個人の感情が無くなるのと、かなり近い。
ドッペルゲンガーは、昔は怪談に押し込められた。
今は、アルゴリズムと快適さの中に埋め込まれている。
怖がらなくていい形に変えて。
でも本質は同じで、「同じものに囲まれ続けると、人は考えなくなる」。
三体のドッペルゲンガーを見て死ぬ、という寓話は、もしかしたら、
タイムライン
リプ欄
引用RT
を同時に眺めた瞬間に、完成する話なのかもしれない。
別にSNSを否定したいわけでも、集団が悪だと言いたいわけでもない。
ただ、
今感じている感情はどこから来たのか
それは本当に自分のものか
同じ顔をした意見に囲まれすぎていないか
そのくらいは、たまに立ち止まって考えてもいい気がする。
ドッペルゲンガーは、ホラーじゃなくて、**構造の話だったんじゃないかと思うから。
これ、アダルトチルドレンと呼ばれる状態とも重なる部分がある。
ACは、感情が無い人じゃない。
むしろ逆で、感情を持つことが危険だった環境に適応した結果、感情の扱いを外に委ねる癖が残った人だ。
空気を読む。
正解を探す。
皆と同じ反応を選ぶ。
それは性格じゃなく、生存戦略だった。
SNSのエコーチェンバーは、その戦略を「正解」として強化する。
同じ意見が返ってくるほど、同じ感情が称賛されるほど、自分で感じる必要はなくなる。
ドッペルゲンガーが「主体が死ぬこと」を描いた寓話だとするなら、
アダルトチルドレンと呼ばれる苦しさは、その寓話を日常として生きている状態なのかもしれない。
感情がないわけでも、思考がないわけでもない。
ただ、どこから始まっているのか分からない。
それは病名というより、主体を持つことが危険だった環境への適応の結果だ。
ドッペルゲンガーはホラーとして語られるようになったけれど、本当はずっと、こういう形で現実の中に存在していたんじゃないかと思う。
