批評の意味がズレた結果、何が起きているのか
「批評」という言葉は、本来どういう意味だったのか。
「批」は分けること。
「評」は言葉にすること。
つまり批評とは、
対象を分解し、その構造を言語化する行為だ。
良い・悪いを決めることではない。
点数をつけることでもない。
ところが現代では、意味がズレている。
その一因は、
「批」という言葉が「批判」や「非難」に引っ張られていることだ。
本来の「批」は、
分けること、区別することを指す。
しかし現代では、
否定すること、攻撃することという意味で受け取られやすい。
その結果、
批評は
分解ではなく
否定や断言の行為として扱われるようになった
つまり、
構造を見る行為が、態度を示す行為にすり替わっている。
ここで起きているのは、単なる言葉の変化ではない。
機能の入れ替わりだ。
本来の批評
→ 分解して構造を明らかにする
現代の“批評”
→ 結果に対して強く評価する
このズレが、いくつかの副作用を生んでいる。
まず一つ目。
分解が消える。
評価だけが残り、
構造が見えなくなる。
なぜそれが成立しているのか、
どこが機能しているのか、
そういった部分は語られない。
次に二つ目。
人気のなぞりが増える。
すでに評価されているものに対して、
「良い」「すごい」と言い直す。
しかしそれは評価ではない。
同意の共有だ。
三つ目。
態度が内容を上書きする。
強い言い方、断定的な口調。
それが理解の深さのように扱われる。
しかし実際には違う。
断言の強さは、分解の精度とは無関係だ。
四つ目。
批評が思考停止になる。
本来は構造を考えるための行為だったものが、
結論だけをなぞる行為になる。
その結果、
「なぜそれが起きているのか」は考えられなくなる。
まとめる。
批評とは、分解して言語化する行為だ。
評価ではない。
態度でもない。
この意味がズレたとき、
批評はただの感想か、同調に変わる。
■ 締め一行
分解しないものは批評ではない。
