いつから葡萄は酸っぱくなくなったのか
イソップ寓話の「酸っぱい葡萄」は、
人間の心理をかなり正確に描いている。
欲しいものがある。
手を伸ばす。
届かない。
だから人はこう言う。
「あれは酸っぱい。
たいした価値はない。」
これは卑怯さの話ではない。
自尊心を守るための、極めて人間的な防衛反応だ。
現実の人間は、だいたい奪わない
妬みや羨望を感じたとき、多くの人は行動を起こさない。
価値を下げる
距離を取る
合理化する
見ないことにする
そうやって感情を内側で処理する。
もし羨望がそのまま行動に直結するなら、世界はとっくに略奪で崩壊している。
酸っぱい葡萄が存在するという事実自体が、羨望は行動の主因ではないことを示している。
それなのに、いつから葡萄は「酸っぱくなく」なったのか
ところが、現代のストーリーやスカッと系創作ではこう描かれる。
羨ましい
妬ましい
だから奪う
だから罰せられる
酸っぱい葡萄のプロセスは消え、羨望→犯罪という直線的な導線が採用される。
ここには、心理の層がない。
人間が、記号になっている。
なぜ酸っぱさは削られたのか
理由はシンプルだ。
酸っぱい葡萄を描くと、物語はスッキリしなくなる。
悪役に共感の余地が生まれる
視聴者が自分を疑ってしまう
社会構造の話が混ざる
責任が個人だけで終わらなくなる
つまり、安心して消費できなくなる。
だから現代の物語は、葡萄を甘くしてしまった。
甘い葡萄が生む「浅さ」
羨望一本で人を動かす物語は、
分かりやすい
短時間で消費できる
カタルシスが即来る
その代わり、
内面が描かれない
動機が薄い
人間が平面的になる
君が感じている
「なんか浅くない?」
という違和感は、ここから来ている。
ストーリーが失ったもの
酸っぱい葡萄があった頃、物語には
失敗
自己欺瞞
言い訳
無力感
人間の弱さ
が含まれていた。
それは不快で、後味が悪く、考えさせられるものだった。
でもその分、人間をちゃんと人間として描いていた。
いつからか、物語は「安心」を優先するようになった
今の多くの物語は、
悪は単純
正義は明快
感情は一直線
結末は予定調和
これは創作の劣化というより、消費環境に最適化された結果だと思う。
速く、軽く、分かりやすく。そのために、酸っぱさは削除された。
結論
葡萄が酸っぱくなくなったのは、人間が変わったからではない。
物語が、人間を描かなくなったからだ。
酸っぱい葡萄は、今も現実の中に存在している。
ただ、それを描く物語が減っただけ。
もし物語が再び人間を描こうとするなら、葡萄はきっと、また酸っぱくなる。
