長編小説が「努力の証」とされる世の中って、正直変じゃない?
長編小説を書ける人はすごい。
努力の証だ。
途中で投げなかった証明だ。
……って、よく言われるけど、
正直それ、かなり変じゃない?と思っている。
一応前提として言っておくと、
俺自身も小説は書いている。
本編が約1万文字。
それとは別に、スピンオフという名の
キャラクター別背景小説が6本。
各5,000〜6,000文字くらい。
合計すると4万文字ちょいになる。
その上で言う。
「長編=努力の証」という評価軸は、創作の本質からズレてる。
長編が評価されやすい理由は、内容じゃない
長編が持ち上げられがちな理由は単純だ。
文字数で測れる
完走/未完が分かりやすい
苦労や努力が説明しやすい
つまりこれは、
表現の評価というより「勤勉さ」の評価に近い。
でも、
時間をかけたことと
表現として優れていることは
本来まったく別の話だ。
これは
「何時間かけました」
「何ヶ月かかりました」
が価値になるのと同じ構造。
創作なのに、
労働時間で評価してどうするんだ、という話。
読み手側から見ると、長編はかなり不親切
読み手目線で考えると、
長編小説はむしろハードルが高い。
最初から最後まで読む前提
合わなかった時の損失が大きい
途中離脱=失敗扱い
これは「読む体験」として親切かというと、正直かなり怪しい。
この形式が主流になったのは、
紙媒体・出版制度・文学賞との相性が良かったからであって、
読み手のために最適化された結果ではない。
長編が成立する数少ない理由
じゃあ長編は全部ダメかというと、そうでもない。
長編が本当に成立するのは、
時間をかけないと変化しないものを描いている時だけだ。
例えば、
人物の価値観の変化
関係性の累積
判断の履歴
人生の歪み方
いわゆる「人物史」みたいなもの。
ここには、長さの必然がある。
逆に言えば、
それ以外の理由で長編にする意味はほとんどない。
事件が多いから、
設定が複雑だから、
世界観が広いから。
その理由で長くなってる長編は、
だいたい水増しされて冗長になる。
分割できる構成の方が、どう考えても親切
個人的には、
一本道で全部読ませる長編より、
共通ルート(本編)
キャラ別スピンオフ
任意で深掘りできる構成
この方が、圧倒的に親切だと思っている。
よく考えたらエロゲ構成なんだけどw
でも体験設計としてはめちゃくちゃ合理的。
読みたい深さを読者が選べる
途中から入っても成立する
離脱しても損した気分になりにくい
「最初から最後まで我慢して読め」
より、
「気になったところだけ入っていい」
の方が、どう考えても現代的だ。
努力を否定しているわけじゃない
誤解されたくないので言っておく。
努力そのものを否定しているわけじゃない。
書き続けるのは大変だし、価値はある。
ただ、
「長編を書き切った=価値がある」
という評価軸が、
創作を苦行化しているのが気持ち悪い。
創作は我慢大会じゃない。
本来は、
圧縮
選択
構造
捨てる判断
ここに価値があるはずだ。
結論
長編小説が努力の証とされる世の中は、
創作を「表現」ではなく
「修行」として見ている。
それって、やっぱり変だと思う。
