ギバーでもテイカーでもない。現代人は「フェダー」になったのではないか
最近よく「ギバー」「テイカー」という言葉を見かける。
与える人がいて、奪う人がいる。
この二項対立は分かりやすいし、人間関係やビジネス論でもよく使われる。
けれど、ずっと違和感があった。
本当に今の社会は「テイカーだらけ」なのだろうか。
むしろ逆で、テイカーですらない人の方が圧倒的に多いのではないか。
僕は最近、その状態を フェダー(Feder) と呼ぶ方がしっくりくるようになった。
ギバーとテイカーは、どちらも主体的である
まず整理したいのは、ギバーもテイカーも、実はどちらも主体的だということだ。
ギバーは自ら与える。
テイカーは自ら価値を取りに行く。
方向は逆でも、どちらも自分の意思で動いている。
ここで重要なのは、善悪ではなく「主体性」だ。
たとえば、価値があると思う知識や技術、人とのつながりを自分で選んで取りに行く人は、ある意味でテイカーだ。
しかしそれは悪ではない。
むしろ生きる上で自然な行為だと思う。
現代に増えているのは、テイカーではなくフェダー
問題はここからだ。
今増えているのは、価値を主体的に取りに行くテイカーですらない。
流れてきたものだけを受け取る人たちだ。
おすすめに出てきたから見る。
話題になっているから買う。
無料で置いてあっても、自分から探しには行かない。
必要だから探すのではなく、目の前に流れてきたものに反応する。
これは「取りに行く」行為ですらない。
だからテイカーではない。
ただ与えられることを前提に待つ存在。
それを私は フェダー(Feder) と呼びたい。
飼育された自由
この構造は、現代の情報環境と非常に相性がいい。
SNSのタイムライン、ショート動画、レコメンド機能。
アルゴリズムが常に次の餌を運んでくる。
自分で探しに行かなくても、刺激は供給され続ける。
一見すると自由に選んでいるように見える。
しかし実際には、与えられた選択肢の中で反応しているだけだ。
これは自由というより、飼育に近い。
空腹を感じる前に餌が置かれる世界では、狩りに行く能力は少しずつ失われる。
価値を見極め、自分で選び、取りに行く力が衰えていく。
無料でも受け取られない理由
だから無料で置いてあっても、多くの人は受け取らない。
価値がないからではない。
自分から取りに行くという主体性そのものが弱くなっているからだ。
これは市場の問題でもあり、文化の問題でもある。
深いものや時間のかかるものは、フェダー化した社会では届きにくい。
すぐ目に入るもの、すぐ理解できるもの、すぐ刺激になるものだけが流通しやすくなる。
問題は善悪ではなく主体性の希薄化
ここで言いたいのは、人を責めることではない。
誰かが悪いという話でもない。
構造として、人が主体性を発揮しなくても生きていける環境ができてしまった。
だからギバー/テイカー論だけでは、現代の違和感を説明しきれない。
本当に増えているのは、与えられることに慣れたフェダーなのではないか。
もしそうなら、いま必要なのは「与えるか奪うか」ではなく、
自分で価値を見つけに行く主体性を取り戻すこと
なのかもしれない。
