儚さとは連続性から生まれるのではないか
「桜は儚いから美しい」
よく聞く言葉だ。
けれど私は、この言葉に少し違和感がある。
本当に人は、ただ「一瞬だから」美しいと感じているのだろうか。
もしそうなら、一度だけ見た風景や、一度きりの出来事の方がもっと記憶に残るはずだ。
しかし現実はそうではない。
人の記憶に深く残るものほど、実は「反復」している。
桜は毎年咲く。
卒業式の時期に、春の匂いと共に戻ってくる。
気温、風、制服、空気感。
それらが毎年似た形で現れるからこそ、
「あの時」を思い出す。
つまり桜は、一回性の花ではない。
むしろ、周期性の花である。
なのに、同じ桜は二度とない。
去年の自分ではない。
隣にいた人も違う。
環境も違う。
人生の段階も違う。
「また会える」のに、
「同じではない」。
この矛盾に、人は何かを感じている。
私はこれこそが、儚さなのではないかと思う。
儚さとは、
単なる一過性ではない。
連続性の中に、断絶が垣間見える時に生まれる感覚なのではないか。
だから卒業式は記憶に残る。
卒業というイベント自体は人生で数回しかない。
しかし社会全体では毎年行われる。
そして桜という周期イベントが重なる。
だから毎年春が来るたびに、過去の記憶が再起動される。
もし卒業式がランダムな日程で、桜とも結びつかず、人類全体としても一度しか行われないイベントだったら、ここまで記憶に残っただろうか。
私はそうは思わない。
一過性だけでは、人は意味を持てない。
反復されるから、積層される。
積層されるから、断絶が見える。
そして断絶があるから、人は儚さを感じる。
だから私は、
「儚いから美しい」
ではなく、
「連続するものの中に断絶が見えるから、美しい」
の方が近いように思う。
桜は散るから美しいのではない。
また咲くのに、同じではないから美しい。
それは人の人生そのものなのかもしれない。
