癖は技術には宿らず、選択に宿る


「上手いのに似てる」が増えた時代

最近思う。
AI時代になって、技術差って以前より薄くなった。
作曲も、映像編集も、イラストも。
極端に言えば、
「それっぽいもの」
は誰でも作れる。
speed blurも、マスクも、glitchも、色味も。
技術そのものは、検索すれば出てくる。
つまり、
技術は説明できる。
だが—
それでも「誰っぽい」は消えない。
なぜか。

技術は再現できる

例えば映像。
speed blurを使う。
レイヤーを重ねる。
マスクを切る。
これ自体は説明可能だ。
数値も手順も言える。
「ここを30%で」
「ここにモーションブラーを」
全部マニュアル化できる。
つまり、
技術は言語化できる。
だから真似もできる。

でも“癖”だけは残る
問題はそこじゃない。
同じ技術を使っても、
何故そこに置いたのか
が違う。
どこで止めるか。
何を「綺麗」と感じるか。
どこを崩すか。
どこに違和感を残すか。
これは説明が難しい。
本人ですら、
「なんとなく」
だったりする。

癖は感性ではなく“選択履歴”

癖とは、特殊技術ではない。
むしろ、
無意識の選択の積み重ね
だ。
何を好み、
何を嫌い、
何を避け、
何を気持ち悪いと思うか。
整えすぎると埋もれる。
綺麗すぎると空気が死ぬ。
少しズレている方が生きる。
そういう無数の判断。
それが積み重なって、
後から他人に
「あ、この人っぽい」
と言われる。

技術は説明できるが、選択は説明できない

創作の面白いところはここだ。
技術は学べる。
だが、
選択理由は学びにくい。
なぜなら本人すら説明できないから。
「なんとなくこっち」
が実は作家性の核だったりする。
だからAI時代、
技術の民主化が進むほど、
逆説的に
“癖”が価値になる。

オリジナルとは発明ではなく“偏り”なのかもしれない

完全なオリジナルなんてない。
みんな既存技術を使っている。
だが、
何を選ぶかだけは違う。
つまり、
オリジナルとは
技術ではなく、偏り。
癖とは、
説明できない選択の履歴なのかもしれない。

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