キャラIP依存症──簡単にキャラが作れる時代、本当に創作しているのは誰なのか
AIの登場で、キャラクターを作るコストは劇的に下がった。
立ち絵は生成できる。
設定も考えてくれる。
動画も作れる。
声まで付けられる。
つまり、キャラクターという「器」は、昔より圧倒的に簡単に手に入る時代になった。
にもかかわらず、最近気になることがある。
あまりにもキャラクターというIPに依存してでしか表現できない人が増えていないか?
何か新しいことを始める。
まず新キャラ。
ジャンルを変える。
また新キャラ。
飽きた。
新ユニット。
新企画。
新世界観。
その繰り返し。
もちろん、それ自体は自由だし、エンターテインメントとして成立しているものも多い。
しかし、本当に変わっているのは中身なのだろうか。
それとも、器だけを取り替えているだけなのだろうか。
創作の主体が
思想 → 作品
なのか、
キャラクター → 作品
なのか。
ここには大きな違いがある。
思想が主体なら、
音楽にもなる。
文章にもなる。
映像にもなる。
研究にもなる。
媒体が変わっても、根底に流れるものは同じだ。
一方で、キャラクターが主体になると、
作品はキャラクターの延長になりやすい。
キャラがなければ語れない。
キャラが飽きられれば、新しいキャラを作る。
昔はキャラクターを生み出すこと自体が創作だった。
だからIPには価値があった。
しかし今は、AIや外注によってキャラクター生成のハードルは極端に低くなった。
それでもなお、
「新しいキャラさえあれば新しい創作になる」
と思っているなら、それは創作ではなく、IPの着せ替えになっている可能性がある。
キャラクターは表現の手段であって、目的ではない。
思想がある人は、一人のキャラクターでも何十年と作品を生み出せる。
逆に思想がなければ、何百人のキャラクターを作っても、中身は同じままだ。
AI時代に問われるのは、
「どんなキャラを作れるか」
ではない。
「キャラがなくても語りたいものを持っているか」
その問いから逃げるために、私たちは無意識のうちにキャラクターというIPへ依存してはいないだろうか。
それこそが、現代の「キャラIP依存症」なのかもしれない。
