事情聴取における心理バイアスと危険性

──「信じる」という構造が、思考を停止させるとき

「誰かが嘘をついている」
──これは警察の事情聴取や裁判の尋問など、真実を見極める場面でよく使われる前提だ。
しかしこの前提自体が、ある種の“信仰”であり、バイアスの始まりでもあることに気づいている人は少ない。


■「信じる」という罠

私たちは、ある証言を「正しいと思う」ことで安心する。
だがその瞬間、他の証言が“間違っていることを前提”に再構成される。
これは思考の中立性を崩す。

「信じる」という行為は、表面的には肯定のように見えるが、
その実、「他を切り捨てるという暴力性」を孕んでいる。

信じるとは、ある構造を確定させることだ。
だが現実は、それほど明確な線引きで構成されていない。

■「疑うこと」は思考の入り口

猜疑心──これもまた危うい。
なぜなら猜疑心とは、「相手に悪意がある前提」で世界を切り分ける態度だからだ。
疑問と似て非なるそれは、視野を狭め、問いを閉ざす。

重要なのは、猜疑心でも信仰でもなく、“疑問”を持ち続けること。
中立とは、「誰も信じない」ということではない。
どの証言にも整合性を問うている状態のことを言う。

■「問い続ける信頼」というあり方

私たちはしばしば、「信じてます」と口にする。
しかしそれは、“もう問いません”という宣言でもある。
だが私はそうは考えない。

信頼とは整合性の継続である。
整合性が崩れたとき、それは疑惑に戻る。
整合性が回復すれば、信頼に戻る。
つまり私は、常に「問いながら信じている」──この中間を揺れ続けている。

■事情聴取は、疑問を排除する構造である

事情聴取においては、「嘘をついている人物を見抜け」という前提が敷かれる。
だがこの構造は、真実の構造そのものを捉えようとする思考を排除している。
あらかじめ選ばれたプロセスの中で、誰が正しいかを選ばせる。
これは、「マジシャンズセレクト」に近い。

選択肢があらかじめ“仕掛けられている”。
そして、その中で“正解”を見つけた者が賢いとされる。

それは本当に、知性と呼べるのだろうか?

結び:「信じる」を解体せよ

本当の思考とは、「信じる」ことでも「疑う」ことでもない。
それは**“問い続けること”**であり、
整合性が通る限りにおいて仮に信頼を預け、
崩れたならまた問いに戻るという、動的な知性のあり方である。

事情聴取の危険性とは、
「思考が閉じる構造が、信仰のように受け入れられてしまうこと」だ。

──私はそうした構造に、常に問いを向けていたい。

思考のグラデーション

猜疑心 ↔︎ 疑惑 ↔︎ 整合性 ↔︎ 信頼 ↔︎ 信仰

思考とは、このグラデーションを往復する運動である。
信じることが「終点」ではないように、疑うこともまた「出発点」ではない。
この振動のなかに、私の知性はある。

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