「善人」と思い込んでいる状態こそ、他者にとって害なのかもしれない
「悪人正機」を現代の感覚で読むと、違和感がある。
「悪人が救われるなら、悪いことをした方が得なのか。」
そんな疑問が生まれるのも当然だ。
しかし、それは「善」と「悪」を現代の価値観だけで読んでいるからなのかもしれない。
本当に危ういのは、「悪」と呼ばれる人ではなく、
「私は善人である」「私は正しい」
と疑わなくなった状態ではないだろうか。
自らを善と確信すると、人は自分を見直す必要がなくなる。
疑うことをやめ、
考えることをやめ、
変わる可能性を失う。
そして、その正義は容易に他者を裁く正義へと変わる。
歴史を振り返れば、多くの争いや迫害は、
「自分たちは善である」
という確信のもとで行われてきた。
一方で、
「自分は間違っているかもしれない。」
「本当にこれでいいのだろうか。」
と問い続ける人は、自らを修正する余地を持ち続ける。
その意味では、「悪」とは単なる善の反対ではなく、
疑い、考え、変わることのできる状態
を指しているのかもしれない。
もしそうなら、「悪人正機」は、
「悪い人ほど救われる」
という逆説ではなく、
自分の正しさを疑える者こそ、人として開かれている
という思想として読むこともできる。
現代の善悪の感覚だけで読み解くと、私たちは「悪人」の意味を取り違えているのかもしれない。
