評価とは、羨望への簡易アクセスを制度化したものだ
最近、ずっと違和感があった。
再生数、いいね、ランキング、肩書、資格、学歴。
どれも「評価」と呼ばれているものなのに、
それ自体が何かを生み出しているようには見えない。
むしろ、
評価が増えれば増えるほど、
中身が希薄になっていく感覚がある。
この違和感の正体を考えていくと、
一つの結論に行き着いた。
評価とは、羨望による「結果」への簡易的アクセスを、
システムとして成立させた行為なのではないか。
羨望は本来、内面で処理される感情だった
羨望は悪い感情ではない。
他人の成果を見て、自分との差を感じる。
それは本来、
行動に変える
学習に変える
あるいは距離を取る
という形で、各自が内面で処理してきた感情だった。
しかし今は違う。
成功や成果が、常時・大量・切り抜きで可視化される。
羨望は一時的な感情ではなく、慢性的に刺激され続ける状態になった。
その結果、羨望を内面で処理しきれなくなった。
処理できない羨望の行き先としての「評価」
羨望を直視するのはしんどい。
同じ努力や責任を引き受けるのも重い。
そこで生まれたのが「評価」という装置だ。
評価はこう機能する。
結果を出さなくても
判断責任を負わなくても
プロセスを引き受けなくても
結果に触れたような感覚だけを得られる。
いいね、再生数、ランキング、偏差値、資格、肩書。
それらは結果そのものではない。
結果に付随していたはずの承認や信頼に、手続きを踏むことで近づける仕組みだ。
評価は承認の低コスト化である
評価が心地いい理由は明確だ。
失敗しなくていい
何者にもならなくていい
責任を引き受けなくていい
それでも、
「分かっている側」
「遅れていない側」
「正しい側」
に立った気分になれる。
評価とは、羨望を抱えた人たちが、承認を気軽に摂取するための代替食品なのだと思う。
なぜ評価は増殖するのか
評価は、
作るコストが低い
使う責任がない
副作用が見えにくい
しかも、使えば使うほど羨望を直視しなくて済む。
だから、
数字は増える
ランキングは細分化される
資格や肩書は増殖する
評価は社会全体に張り巡らされ、評価されやすさが目的化していく。
本来の順序は逆だった
本来はこうだったはずだ。
できることがある
必要とされる
代替できない
信頼される
評価は、その痕跡にすぎなかった。
今は順序が逆転している。
評価を取る
結果を出した気分になる
能力や必要性は曖昧なまま
その結果、
評価は増えたのに、実際に頼れる人は減っていく。
認めてもらう必要は、本当はない
アカデミアでも会社でも、本質は同じだ。
本当に必要なことをやっていて、代替不可能で、実際に使われているものは、認めてもらおうとしなくても、勝手に参照され、使われ、支援される。
評価を求める必要がある行為ほど、実は代替可能で、供給過多で、評価ゲームに依存している。
評価の外側に立つということ
評価を全否定したいわけではない。
ただ、
評価を「結果の代替」として扱うと、創作も研究も仕事も歪む。
必要性を見る。
代替不能性を見る。
実際に機能しているかを見る。
この視点に立つと、評価は目的ではなく、遅れて付いてくる副産物に戻る。
結論
評価とは、羨望による結果への簡易アクセスを
制度化した社会装置である。
だから今、
評価は溢れ
人は疲れ
中身は空洞化する
この違和感に気づいた時点で、もう評価に存在を預ける必要はない。
必要なことをやる。
代替できないことを続ける。
それだけで、評価は後から勝手に付いてくる。
