生呑活剥 ― 奪われるのは権利ではなく、人格かもしれない
「盗作」と聞くと、多くの人は著作権を思い浮かべる。
無断転載。
ライセンス違反。
損害賠償。
確かにそれらは重要だ。
しかし、「生呑活剥」という四字熟語を見ると、少し違う景色が見えてくる。
生きたまま飲み込み、剥ぎ取る
生呑。
活剥。
文字だけを見れば、
「生きたまま飲み込み、生きたまま皮を剥ぐ。」
非常に強烈な表現である。
ここには「コピーする」という軽い意味は感じられない。
むしろ、
相手の存在そのものを自分のものにする。
そんな恐ろしさがある。
だから、この言葉が示しているのは単なる権利侵害ではなく、
作者性や人格の簒奪なのではないかと思う。
言葉には人格が宿る
文章は情報ではない。
そこには、
何を見てきたか。
何を考えてきたか。
何を信じてきたか。
その人の人生そのものが滲み出る。
だから作品とは、
人格の痕跡であり、
思想の結晶でもある。
それをそのまま自分のものとして扱うことは、
単なる盗用ではない。
人格そのものを奪う行為に近い。
利権だけを見た盗作
現代では盗作の議論が、
著作権や利益に集中することが多い。
もちろん制度として必要な視点である。
しかし、それだけを見ると、
「誰がいくら損をしたか」
だけが問題になる。
本来失われているはずの、
作者の思想やアイデンティティは議論の外へ置かれてしまう。
盗作の本質は利益ではない。
作者性を他人のものとして成立させることにある。
自分自身への生呑活剥
さらに考えてみる。
もし自分自身が、
利益だけを基準に作品を作り、
評価だけを追い求め、
権利だけを守ろうとしたらどうなるだろう。
作品は残るかもしれない。
収益も得られるかもしれない。
しかし、
自分は何を表現したかったのか。
何を信じていたのか。
その核が失われていく。
それは他人から奪われたのではない。
自分自身で、自分の人格を生きたまま剥ぎ取っているのである。
本当に守るべきもの
著作権は守るべきだ。
利益も否定するものではない。
しかし、それらは創作を支える制度であって、
創作そのものではない。
本当に守るべきなのは、
言葉に宿る人格であり、
作品に刻まれた思想であり、
時間をかけて形成された作者性である。
利益だけを守って、
人格を失うなら、
それは他者による盗作だけではない。
自らの創作を、
自ら生呑活剥していることになるのかもしれない。
