養猫遺患 ― 遺恨は消すものではなく管理するもの

「養虎遺患」とは、本来「敵を生かしておくと後に災いとなる」という意味である。
しかし、この言葉を眺めていると少し疑問が湧く。

本当に問題だったのは、敵を生かしたことなのだろうか。

歴史を振り返れば、敵を生かしたから問題になったというよりも、敵に遺恨を残すような扱いをしたから問題になった例が数多く存在する。
一族を滅ぼす。
領地を奪う。
名誉を奪う。
家臣を離散させる。
そして最後に「お前だけは助けてやる」と言う。
支配者は恩を与えたつもりでも、当人から見れば全てを奪われた後の施しに過ぎない。
感謝よりも屈辱が残る。
その結果として生まれるのが遺恨である。

だが、さらに考えてみたい。
そもそも遺恨とは本当に消せるものなのだろうか。
家族。
夫婦。
友人。
会社。
国家。
人が関係を持ち、同じ場所に定住する以上、価値観や利害の衝突は避けられない。

つまり遺恨は特別なものではなく、人間関係そのものから自然に発生する副産物である。
定住する限り。
共同体を作る限り。
関係を持つ限り。

大小こその差はあれ、遺恨は必ず生まれる。
であるならば、「遺恨をなくす方法」を探すこと自体が誤りなのかもしれない。
実際、人は遺恨を消そうとするほど大きな遺恨を生み出す。
完全勝利を目指す。
相手を論破する。
徹底的に叩き潰す。
一族郎党を滅ぼす。
これらは問題を解決するように見える。

しかし実際には、問題そのものよりも大きな遺恨を残すことがある。
虎を殺そうとして、さらに大きな虎を生み出してしまうのである。

そこで私は「養虎遺患」ではなく、「養猫遺患」と考えてみたい。
人間関係の中で生まれる不満や摩擦は、最初から虎ではない。
多くは猫である。
少しの不公平感。
少しの誤解。
少しの嫉妬。
少しの不満。
誰の心にも現れる小さな猫だ。
問題は猫が存在することではない。
猫を無視することでもない。
猫を完全に消そうとすることでもない。
それらを積み重ねた結果、猫が虎へと育つのである。

結局のところ、遺恨はなくならない。
だから必要なのは消滅ではなく管理だ。

養虎遺患とは、
「火種を残すな」
という戒めではなく、
「火種は必ず残る」
という現実を忘れるなという戒めなのかもしれない。

虎を消そうとするほど虎は増える。
だから人は虎を討つのではなく、猫のうちに扱う知恵を持たなければならない。

そしてもう一つ。
もし自分自身が虎になりたくないのであれば、時に関係を断つことも必要になる。
恨みはすぐには消えない。

しかし、関係を断つことで餌を断つことはできる。
顔を合わせ続ける。
争い続ける。
過去を蒸し返し続ける。
そうした行為は虎を育てる餌になる。
反対に距離を置けば、虎は残ったとしても痩せていく。

断絶とは相手を罰するための行為ではない。
自らの虎を育てないための選択でもある。
遺恨は消せない。
定住する限り、関係を持つ限り、それは必ず生まれる。
だから大切なのは、遺恨をなくそうとすることではない。
遺恨があることを前提に生きることだ。
虎を恐れる必要はない。
だが、虎が存在しないと思い込んではならない。
遺恨は消すものではない。
管理するものなのである。

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