読書家と蔵書家の線引きが曖昧になってないか?
最近よく見かける。
年に◯冊読んだ
月に◯冊消化している
読書量が多い人ほど思考が深い
この手の言説に、ずっと違和感がある。
先に言っておくと、読むこと自体を否定したいわけではない。
自分自身も読むし、書く側でもある。
ただ、「読む量」を誇り始めた瞬間に、それは本当に読書家の態度なのか?
という疑問が消えない。
昔の読書家は、量を誇っていただろうか
歴史的に見て、いわゆる読書家・思想家・学者たちは、
何冊読んだか
どれだけ積んだか
を前面に出して語っていただろうか。
実際は逆で、
引用
再解釈
批判
要約
アウトプットで語っていた。
本が多かったのは事実だが、それは「誇り」ではなく、読んだ結果として増えただけに近い。
量を誇る文化は、むしろ蔵書家の文脈
一方で、歴史的に明確に存在していたのが「蔵書家」。
稀覯本
初版本
装丁
所有点数
こちらは読むことよりも、所有・収集・保存そのものが価値。
だから、
どれだけ持っているか
どれだけ集めたか
を誇るのは、本来こちらの文化圏だった。
読む量を誇った瞬間、態度は蔵書家的になる
ここが一番言いたいところ。
「読む量を誇る」という行為は、
読書という体験
ではなく読書履歴という“数量”
を価値にしている。
つまり、
読んだ数が多い
↓
外部から確認できる量が多い
↓
それを誇る
この構造は、蔵書家の誇り方と完全に同型。
読む行為であっても、誇っている対象が「量」なら、態度としては蔵書家的だと思う。
なぜ今、このズレが目立つのか
現代は、
本が安い
情報が過剰
読むこと自体が珍しくない
だからこそ、
何を考えたか
より
どれだけ読んだか
がアイデンティティ記号として使われやすくなった。
中身は見えにくいが、冊数は見える。
結果、
読書家と蔵書家の線引きが溶け
所有的態度が
思考的態度の顔をして出てくる
そんな文化になっている気がする。
量は否定しない。でも位置づけは戻したい
誤解のないように言うと、
たくさん読むこと自体は悪じゃない
量が質を支える時期もある
ただそれは、自分の内部で完結する話だ。
外に向けて誇る指標になるのは、
何をどう理解したか
どう更新されたか
どう説明できるか
そっちのはず。
結論
読む量を誇り始めた瞬間、読書は思考ではなくコレクション履歴になる。
それは読書家の態度ではなく、蔵書家的な態度だ。
量が悪いのではない。量を誇りの中心に置いたとき、何かがズレる。
そのズレに、最近ずっと違和感を覚えている。
