天理人欲 ― 善悪とは因果の未確認状態である
「天理人欲」という言葉がある。
一般的には、
天理は善。
人欲は悪。
欲望を抑え、天理に従え。
という意味で解釈されることが多い。
しかし、この解釈には少し違和感がある。
欲望そのものは本当に悪なのだろうか。
食べたい。
生きたい。
愛されたい。
評価されたい。
これらは人間に自然に備わった欲求であり、善悪以前の現象であるように思える。
ではなぜ人欲は悪とされたのか。
その理由は欲望そのものではなく、人間が観測できる因果の範囲にあるのかもしれない。
人には寿命がある。
どれだけ賢い人間でも、自らの生涯を超える因果を確認することはできない。
そのため人は自然と、
「自分が確認できる範囲」
で判断するようになる。
今の利益。
今の快楽。
今の成功。
今の評価。
これは決して不自然なことではない。
むしろ生物として当然の性質である。
しかし因果は、人間の寿命より長い。
ある世代が利益を得る。
その結果として負債が生まれる。
しかしその負債は、本人が生きている間には現れない。
子供に現れる。
孫に現れる。
地域に現れる。
国家に現れる。
あるいは人類全体に現れる。
本人から見れば因果は消えたように見える。
だが実際には移動しただけである。
だから人欲とは欲望ではなく、
「自分が確認できる範囲だけで因果を評価すること」
なのかもしれない。
反対に天理とは、
「人間の観測範囲を超えて存在する因果」
である。
仏教が死後の世界や輪廻を語るのも、この問題と無関係ではないように思える。
人生一回で因果が回収されるとは限らない。
善人が苦しみ、悪人が栄えることもある。
だから因果の時間軸を人の寿命より長く設定した。
輪廻を信じるかどうかは別として、
そこには
「人間の視野だけでは因果の全体は見えない」
という認識がある。
そう考えると、善悪という言葉も違って見えてくる。
私たちは結果を見ないまま善悪を決めている。
ある政策が善だったのか。
ある行為が悪だったのか。
その因果が完全に展開する前に評価している。
つまり善悪とは、
因果の最終結果ではなく、
因果の未確認状態に付けられた仮の名前なのかもしれない。
天理人欲とは、
欲望を否定する言葉ではない。
人間の有限な視野と、世界の無限な因果との間にある隔たりを示す言葉である。
人欲とは有限視点であり、
天理とは有限視点を超えた因果である。
そして私たちが善悪と呼ぶものの多くは、
まだ全体を確認できていない因果の途中経過に過ぎないのかもしれない。
