読書百遍というけれど、読字百遍になっていないだろうか

「読書百遍、義自ずから見る」という言葉がある。

何度も読めば、自然と意味が理解できるという教えだ。
しかし現代では、この言葉は少し違う形で受け取られているように思う。

「百遍」という回数だけが独り歩きし、
「繰り返すこと」が目的になってはいないだろうか。

筋力トレーニングでも、同じ動作をただ繰り返しているだけでは効率は悪い。
どこの筋肉に負荷がかかっているのか。
姿勢は適切なのか。
代償動作になっていないのか。

だからこそ「意識しろ」と言われる。
重要なのは反復そのものではなく、反復の中で考えることだからだ。

読書も同じではないか。
文字を百回眺めても、文字は増えない。
同じ解釈を百回繰り返しても、新しい理解は生まれない。

必要なのは、
「この言葉は本当にそういう意味なのか」
「当時の時代背景はどうだったのか」
「現代に置き換えるとどうなるのか」
という問いを何度も立てることだ。

例えば「前途多難」という言葉。
ただ辞書通りに覚えれば、
「これから先、多くの困難がある」
で終わる。
しかし、
「難とは何だろう」
「天災と人災は同じ難なのか」
「人災なら、それは障害ではないのか」
と考え始めた瞬間、その四字熟語は新しい姿を見せ始める。
これは百回読んだからではない。
百通りに考えたからである。

だから私は思う。
現代人がやっているのは「読書百遍」ではなく、
「読字百遍」
なのかもしれない。
文字は読んでいる。
しかし、書物を読んではいない。
回数は再現しやすい。
だから誰でも真似できる。
しかし思考は再現しにくい。
だから形式だけが残り、本質は失われてしまう。

読書百遍というけれど、
本当に必要なのは百回読むことではない。
百回、自分の解釈を壊すことなのだと思う。

いいなと思ったら応援しよう!