「企業」とは何を企てるものだったのか
「企業」という言葉を分解すると、
企=くわだてる、計画する
業=事業、仕事、成すべきこと
つまり、企業とは本来、
「業を企てる存在」
である。
では、その「業」とは何だったのだろう。
明治日本において、企業は富国強兵の一翼を担っていた。
鉄道を造る。
銀行を造る。
工場を造る。
利益を上げることは目的ではなく、国を豊かにするための結果でもあった。
渋沢栄一が掲げた「士魂商才」も、その文脈で理解できる。
商人であっても武士のような道義を持ち、公の利益を忘れるな。
つまり、
士魂(公) × 商才(手段)
という思想だった。
しかし現代はどうだろう。
企業の評価は、
売上
利益率
株価
KPI
時価総額
で語られることが多い。
もちろん利益は企業存続のために必要である。
しかし、それが目的そのものになった瞬間、
「何を企てる企業なのか」
という問いは後景へ退く。
私は現代企業を皮肉を込めて、
「私魂商才」
と呼びたい。
商才はある。
しかし、その魂が向く先は「公」ではなく「私」である。
もちろん全ての企業がそうだとは言わない。
だが、「企業」とは本来「業を企てるもの」であり、「利益を企てるもの」ではなかったはずだ。
業なき利益は、やがて目的を失う。
創業とは目的を持つことであり、維持とは目的を守ることではない。
企業という二文字には、もう一度問い直されるべき意味があるのではないだろうか。
