芸術評価は消えたのではない、置き換えられただけだ

最近よく聞く言葉がある。
「今は再生数や売上ばかりで、ちゃんとした評価がされなくなった」
「芸術が軽くなった」
だが、この認識には決定的なズレがある。
それは、本当に芸術評価は“消えた”のかという点だ。


評価は元々、誰でもやるものではなかった

まず前提として、芸術評価というものは軽い行為ではない。
構造を見る。
コンセプトを読み取る。
文脈を踏まえて解釈する。
こういった行為には、時間も前提知識も必要になる。
つまりこれは、最初から限られた人間しかやっていない行為だった。
誰もが自然にやっていたわけではない。

市場は拡張され、「誰でも評価者」になった

しかし現代は違う。
SNSやAIによって、作品は一気に開放された。
誰でも触れられる。
誰でも発信できる。
誰でも評価に参加できる。
ここで起きたのは、元々評価を行っていなかった層の大量流入だ。

起きたのは“劣化”ではなく“置き換え”

ここで多くの人はこう言う。
「評価の質が落ちた」と。
だが実際に起きているのはそれではない。
深く読む評価は、もともと少数だった。
数で測る評価は、大多数が扱える。
この構造の差によって、
市場評価(再生数・売上)が、芸術評価の位置を占有した。
つまり、芸術評価が劣化したのではなく、
市場評価に置き換えられただけである。

「育てる」という言葉の違和感

ここでよく出てくるのが「受け手を育てる」という話だ。
だが、この言葉もかなり曖昧だ。
市場側の育成は人数が増えること。
芸術側の育成は理解が深まること。
本来は全く別の話であるはずなのに、同じ「育てる」という言葉で語られる。
その結果、市場が拡張し、浅い接触が増える。
それを見て「育っている」と言われる。

実態は「育成」ではなく「巻き込み」

しかし冷静に見れば明らかだ。
理解が深まっているのではなく、関わる人数が増えているだけ。
育てているのではない。
巻き込んでいるだけである。

そして評価は一本化される

巻き込みによって増えた大多数の評価は、
再生数、いいね、売上といった、わかりやすい指標に集約される。
なぜなら、それしか扱えないからだ。
その結果、市場の数字がそのまま作品の価値として扱われるようになる。

結論

現代は芸術評価が失われた時代ではない。
元々存在していた評価層の外側を市場に取り込んだ結果、市場評価が芸術評価のように振る舞い始めただけである。

最後に

芸術評価は消えたのではない。
数に置き換えられただけだ。

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