売ることの怠慢がクレームを生む構造

最近ずっと考えていたことが、ようやく一本の線でつながった。

クレームとは何なのか。
謝罪要求とは何なのか。
そして、なぜ今それが過剰に見えるのか。

この話、単純に「受け手が過敏になった」とか「クレーマーが増えた」で片付けると、かなり本質を見落とす。

むしろ私は逆で、かなりの割合は売る側の怠慢から始まっていると思っている。


クレームは作品から生まれているのか

多くの場合、クレームは作品そのものから生まれているとされる。

不快だった。
期待と違った。
傷ついた。
説明と違う。

もちろん、それ自体は自然な感情だ。

しかし、その前に一つ問いを置きたい。

その作品は、本当にその人に届けられるべきものだったのか?

ここが、かなり曖昧にされている。

売るとは、本来マッチングである

私は以前から、売るという行為そのものを否定していない。

むしろ売るとは、本来必要な人に必要なものを届ける行為である。

作品も、商品も、思想も同じだ。

問題なのは、いつからか売ることがとにかく露出し、数字を取りに行く行為へ変質してしまったことにある。

ここでマッチングの責任が放棄される。

誰に届けるべきか。
どういう期待値を持たせるべきか。
どんなテーマを扱う作品なのか。

これを雑にしたまま、数字だけを追う。

すると当然、本来受け取るべきではない層にまで届く。

不快感は、しばしば誤配から生まれる

社会批評の作品を、癒し系エンタメのように売る。

重いテーマを、軽いキャッチコピーで流通させる。

刺激的な一文だけを切り出して拡散する。

こういうことが起きれば、不快感が発生するのは当然だ。

しかしその不快感は、本当に作品単体の責任なのだろうか。

かなりの割合は、売る側の導線設計の怠慢によって発生している。

つまり、これは作品の問題である前に、流通の問題である。

その結果、責任がインフレする

そして誤配によって発生した不快感は、次に謝罪要求へつながる。

ここで本来問われるべきはなぜこの人に届いてしまったのかなのに、話はいつも作品側の責任へ短絡する。

結果として、

  • 謝罪要求

  • コンプライアンスの過補正

  • 問い合わせ窓口の閉鎖

  • オペレーター不在

といった副作用が生まれる。

本当に必要な救済まで機能しなくなる。

これは責任の所在が曖昧なまま、後工程だけで火消ししている構造だ。

クレーマーを生んでいるのは誰か

ここでよく「クレーマーが悪い」という話になる。

しかし、私はむしろ

クレーマーを構造的に生み出しているのは、雑な売り方そのもの

だと思っている。

届けるべきでない相手に届け、期待値をズラし、不快を発生させる。

その後に責任論だけを押し付ける。

これではクレームが増えるのは当然だ。

終わりに

売るとは、本来マッチングである。

届ける責任を放棄し、数字だけを追えば、クレームは必然的に増える。

クレームとは、受け手の問題である前に、流通設計の失敗が可視化された現象なのかもしれない。

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