障壁
「理由がないのに、学校に行けないんです」
中学2年生の少年は、ある日から教室に足を踏み入れられなくなった。
痛いわけでも、事件があったわけでもない。ただ、朝になると体が動かなくなる。
家では笑う。ゲームもする。
「元気そうなのに、なぜ行かないのか」──母親の沈黙は、少年の罪悪感を静かに深く染み込ませていく。
何も話せない。話そうとすると、すべてが崩れてしまいそうになる。
“困ってないように見せる”ことが、彼に残された最後の防御だった。
これは、誰にも言えなかった言葉たちが、
ゆっくりと、静かにほどけていくまでの物語。
「適応できない」のではなく、「適応させようとする社会」が壊れているのかもしれない。
彼の沈黙の奥にある、“声にならない叫び”が、今、少しだけ形になる。
#創作大賞2025
第一章:朝が来る音
朝は、いつも先に気配で来る。
目覚ましの音より前に、部屋の空気が変わる。
窓の外から差し込む光。台所から聞こえる食器の音。
それだけで、今日は“学校がある日”だってわかる。
体が動かない。
目を開けるのも怖い。
昨日の夜は「行く」って思ってたのに、朝になると全部消える。
“行かなきゃいけない”と思うと、呼吸が浅くなる。
でも、理由はわからない。何が怖いのか、説明できない。
ただ、体が拒否してる感じがする。
「〇〇、起きなさい」
ドアの外から、母の声。
もう少しで入ってくる。布団をめくって、腕を引っ張ってくる。
「起きないと遅れるでしょ」
「また休むつもり?」「理由は何?」
――やめてほしい。
でも、声が出ない。
胸の奥がザワザワして、頭の中がノイズみたいになる。
言葉が押し込まれて、代わりに怒りが出る。
「うるさい!」と叫んで、手を払ってしまう。
本当は、怒ってるんじゃないのに。
ただ、怖くて、何かが詰まって、吐き出さずにはいられなかった。
母の足音が遠ざかる。
静かになった部屋で、自分の呼吸だけが響く。
どこも痛くないのに、体が重い。
気を抜くと涙が出そうになるから、目を閉じる。
“今日もまた、行けなかった”
その言葉が、頭の中で何度もリピートする。
第二章:動かない日々
昼になると、少しだけ楽になる。
スマホを見て、ゲームをして、YouTubeを流しながらぼーっとする。
母は黙ってる。ときどきチラッと見てくるけど、何も言わない。
その沈黙が一番こわい。
自分でも、「楽してる」と思われてるのはわかってる。
実際、布団からは出てるし、ゲームもしてるし、
食欲もある。笑うことだってある。
でも、だからって“元気”ってわけじゃない。
なんか違う。
“元気なフリ”はできる。でも、“大丈夫”な感じではない。
母がため息をついた。
その音だけで、胃のあたりが重たくなる。
「どうせ怒られる」って思って、部屋に戻る。
閉めたドアの向こうで、何か言った気配がしたけど、
聞こえないふりをした。
自分でも、何がいけないのかわからない。
ただ、学校に行こうとすると頭がグルグルして、
何もかもがイヤになる。
でも、行かないと、どんどん“遅れてる”感じがしてくる。
みんながどこかに進んでいて、自分だけ置いていかれてる。
取り残される感じ。
けど、進もうとすると、足が動かない。
だから動かない日々を、ただ眺めてる。
カレンダーに目をやると、赤い丸がいくつもある。
それは、母がつけた「欠席」の印。
自分の存在が、カレンダーに“失敗の記録”として並んでいる気がして、目をそらした。
第三章:教室の匂い
最初は、小学校の延長だと思ってた。
中学に上がっても、友達がいて、授業があって、給食があって。
それだけなら、たぶん普通に通えてた。
でも、違った。
教室の空気が重くなった。
誰かが誰かを見て笑う声。
“何がおかしいの?”って思っても、聞けなかった。
聞いたら、自分が笑われる気がしたから。
黒板のチョークの音がキーンと響いて、
誰かの貧乏ゆすりが気になって、
教師の声の抑揚が、時々怖くて。
些細なことが、積み重なる。
毎日、少しずつ、苦手なものが増えていく。
誰かに「いや、気にしすぎでしょ」って言われたら、それで終わるようなことばかり。
でも、自分にとっては終わらなかった。
“その場にいる”だけで、体力が削られていく感じ。
ある日、席替えがあった。
前の席に移動になっただけで、胃がキリキリした。
黒板が近い。みんなの視線が後ろから刺さる。
ちょっと手を挙げるのも、緊張で手が震えた。
「なんでそんなに気にするの?」
って、担任に言われたことがある。
自分でもそう思った。
でも、そう思うほど、ますますわからなくなった。
気づいたら、教室に入る前に足が止まるようになっていた。
理由なんて説明できなかった。
“なんか嫌だ”だけじゃ、伝わらないことも知ってた。
だから、黙ってた。
黙ってるうちに、1日休んで、2日休んで。
そのうち、行かないのが普通になっていった。
けど、あの教室の匂いだけは、今も鼻の奥に残ってる。
ちょっとした消毒の匂いと、汗と、紙のにおい。
あれを思い出すだけで、胸の奥が苦しくなる。
第四章:母の沈黙
夕方。リビングに降りていくと、母が洗濯物をたたんでいた。
テレビの音が小さく流れていて、窓の外はまだ明るい。
でも、部屋の空気は重かった。
母は、何も言わなかった。
顔を上げて、こっちを見たけど、すぐに目をそらした。
怒っているわけじゃない。
泣いているわけでもない。
ただ、何も言わない。それがいちばん怖かった。
前は、何度も聞かれた。
「なにがあったの?」
「理由を言って」
「先生にも相談したよ」
でも最近は、聞かれなくなった。
それは、あきらめたってことなのかもしれない。
夕飯のとき、母が少しだけ話しかけてきた。
「食べられそう?」
「うん」って答えた。
そのあと、沈黙が戻ってきた。
テレビのバラエティ番組が、他人の世界みたいに流れていた。
母は箸を動かしながら、何かを考えているようだった。
あの沈黙の中には、たぶん言葉がたくさん詰まってた。
「どうして行かないの?」
「このままでいいと思ってるの?」
「心配してるんだよ」
そんな言葉を、母は呑み込んでいた気がする。
自分のせいで、母が黙る。
それが、つらかった。
怒られたほうが、まだマシだったかもしれない。
でも、「怒る気力もなくなった母」を見るのが、一番こたえる。
「ごめん」って言えたら楽なのかもしれない。
でも、それを言ったら全部自分のせいになる気がして、怖かった。
謝って、どうにかなる話じゃないって、どこかでわかってた。
だから、今日も言わなかった。
何も言わずに、箸を置いた。
第五章:声にならない
担任の先生から電話があった。
スマホを置いて、母が一言だけ言った。
「先生、心配してたよ」
その声に責める感じはなかった。
でも、“それでも応えなかった”という事実だけが残って、喉の奥が詰まった。
「話したいことがあれば、いつでも連絡してね」
──先生はそう言ってたらしい。
でも、話したいことなんて、ない。
正確に言えば、「話せる形になってる言葉」が、どこにもない。
なんか違う。なんかつらい。なんか無理。
その“なんか”が、ずっと取れないまま、喉の奥に引っかかってる。
言葉にならない。
なろうとしない。
たぶん、自分自身でも「何が原因だったか」をはっきり覚えていない。
「これ」って決めた瞬間に、それ以外のすべてが嘘になりそうで怖い。
だから、黙ってる。
黙っていることでしか、バランスを取れない。
そして、黙っていると、「何も困ってない子」になる。
家では普通にしてるし、ご飯も食べるし、笑うこともある。
だから、「大丈夫そう」に見える。
でもそれは、“言葉を使わない”という最後の防御だった。
“本当に困ってる子は、困ってるって言える”
そう思われてるかもしれない。
でも、自分は逆だった。
「言えないくらい困ってる」
それだけのことだった。
夜になって、ひとりで布団に入る。
明かりを消した部屋は静かで、少しだけ安心する。
何も聞こえない。何も求められない。
それだけで、呼吸がしやすくなる。
泣いた。
理由はわからなかった。
でも、涙がこぼれることで、
「言えないことがある」ってことだけは、自分にもわかった。
第六章:障壁の向こう
朝、また母が起こしに来るかと思ったけど、来なかった。
気配はあるのに、部屋のドアは開かなかった。
代わりに、階段の下から、ぽつんとした声だけが聞こえた。
「……別に、無理に行かなくてもいいよ」
その言葉が、ゆっくり部屋に届いたとき、
なぜか、体の力が抜けた。
喉の奥が熱くなって、呼吸が深くなった気がした。
“行かなくてもいい”
それは、逃げることじゃない気がした。
ようやく、“ここにいてもいい”って言われた気がした。
学校に行けない自分を、
「だめなやつ」って思ってた。
「どうにかしないと」って、焦ってた。
でも、その焦りすら、ずっと“誰かの言葉”だったのかもしれない。
自分の中にある“障壁”は、
「怖さ」でも「怠け」でもなくて、
ただ、“まだ無理”っていう小さなサインだった。
“いつか行く”とは思ってない。
“行けるようになりたい”とも言えない。
でも、今日だけは、
“行かなくても、自分を嫌いにならなくていい”って思えた。
それだけで、
今までよりずっと、心が軽くなった。
午後、母がドアをノックした。
「お昼、食べる?」
「……うん」
自分の声が、少しだけ普通に戻っていた気がした。
まだ、何も変わってない。
でも、何かが変わりはじめた。
それは、学校に戻ることじゃない。
“自分の中の壁”が、少しだけ透けて見えた、そんな感覚だった。
《完》
