原子力は“安全”を選ばなかった──ウランとプルトニウムという国家の選択
第1章:導入──「原子力は危険か?」という問いの前に
原子力に対して私たちは「危険か否か」という問いを本能的に立てがちだ。しかしその問いは、実は問いの立て方自体にバイアスがある。「原子力=危険」という前提に引っ張られている。そしてその前提は、多くの場合“情報の不足”ではなく、“情報の設計”によって意図的に作られている。
原子力が「恐怖の象徴」として定着した背景には、事故、被曝、放射能という“見えない危機”がある。しかしその「見えなさ」は、科学的な構造ではなく、思想の不在によって引き起こされている。
本稿では、「原子力は危険か?」ではなく、「なぜその原子力が選ばれたのか?」という構造的問いを軸に話を進める。
第2章:構造暴露──なぜウランとプルトニウムが選ばれたのか(軍事・資本)
核分裂を起こす物質は複数あるが、なぜウランとプルトニウムが中心的に選ばれたのか。
それは「エネルギー効率」や「安全性」ではなく、「兵器転用の可能性」と「国家による管理のしやすさ」が主な理由である。ウラン235やプルトニウム239は、臨界に達しやすく、爆縮構造による核兵器化が可能であることが知られている。
資本主義国家は、エネルギー政策を民間需要ではなく軍事的・地政学的要請に基づいて設計してきた。ゆえに「発電」ではなく「管理」が第一に考慮された。
その設計思想が、後に“安全神話”という別の幻想を生む土台となる。
第3章:フランスモデルの輸出──日本に再処理路線が来た理由
日本の核政策は、「非核三原則」とは裏腹に再処理(プルトニウム抽出)を中核に据えている。これは、冷戦期にフランスが推進した“再処理インフラと技術輸出”政策と密接に関連している。
フランスはエネルギー自立を掲げ、独自に再処理可能な技術と施設を整備。そのパッケージが、1970年代以降、日本の原子力政策に深く入り込んでいった。
その結果、日本の原子力発電は“廃棄物を再利用できる”という幻想のもと、再処理ありきの構造に縛られていく。
第4章:消された技術──トリウム・液体金属炉・核融合以外の可能性
「原子力=ウラン・プルトニウム」という前提は、技術的な必然ではない。
実際には、より安全で管理性の高い「トリウム原子炉」や、「液体金属冷却炉」、さらには「加速器駆動型核変換」など、多様な技術が研究されてきた。
だが、それらは“軍事転用が困難”であり、“資本集約が難しい”ために排除された。
技術的選別は、必ずしも「科学的妥当性」ではなく、「資本主義的妥当性」によって行われてきたのだ。
第5章:思想転覆──「安全神話」は思想ではなく国家装置だった
「原子力は絶対安全」という“神話”があった。だがそれは思想ではない。思想とは、問い直すことが可能な枠組みである。
安全神話はむしろ、“問いを封じるための国家装置”として機能した。
福島原発事故後、多くの国民が初めてこの「装置の存在」に気づいた。
だが、その装置は今も撤去されたわけではない。ただ“語り口”が変わっただけである。
結語:「危険性」は設計思想の問題であり、資本と国家の都合で選ばれた構造
原子力の「危険性」とは、物理的性質ではなく、設計思想とその選定過程の構造に宿っている。
それは軍事転用が可能であり、国家が管理しやすく、資本が回収可能なモデルとして「選ばれた」ものだ。
したがって、「原子力は危険か?」という問いは、「この原子力の設計は、誰のために、何のために選ばれたのか?」と再構成されねばならない。
思想が欠落した原子力は、いつまでも“未知の恐怖”として語られ続ける。だが、思想が加わった原子力は、「設計可能な現実」として語ることができる。
