子どもに敏感な社会ほど、大人の躾が崩れている
――そして、社会は子どもから遠ざかった
電車の中で子どもが靴のまま座席に足を乗せている。
そんな一場面がSNSに切り取られると、すぐにこうした言葉が並ぶ。
「親は何をしているんだ」
「躾がなっていない」
「今の親は甘すぎる」
だが、ここで一度立ち止まって考えたい。
本当に問題なのは、子どもの躾だけなのだろうか。
むしろ今の社会は、子どもの躾に敏感になればなるほど、大人自身の未熟さを露呈しているように見える。
躾とは、子どもだけの話ではない
躾という言葉を聞くと、多くの人は子どもにルールを教えることを思い浮かべる。
しかし本来の躾とは、単に命令に従わせることではない。
場の状況を読む
他者への配慮を持つ
感情を即座にぶつけない
摩擦を最小化する
つまり、社会の中で共存するための自己制御そのものだ。
この能力は、本来子どもよりもまず大人に求められるはずである。
にもかかわらず、SNSでは一枚の写真、一行の文章だけで家庭全体を断罪する言葉が飛び交う。
その子どもが何歳なのか。
何度注意した後なのか。
眠いのか、疲れているのか。
あと一駅で降りるところだったのか。
そうした文脈はほとんど考慮されない。
一場面だけを切り取り、即座に「親失格」と断定する。
果たしてそれは、躾けられた大人の態度なのだろうか。
子どもは、小さな大人ではない
子育てに少しでも関わったことがある人ならわかる。
子どもには、何度言っても聞かないフェーズが普通にある。
眠い。
空腹。
疲労。
機嫌の崩れ。
こうした状態では、理屈での説得はほとんど通じない。
そこで無理に靴を脱がせようとして、泣き叫び、暴れ、周囲にぶつかり、むしろ状況が悪化することもある。
そのとき現場の親が選ぶのは、理想論ではなく現実解だ。
「すみません、あと一駅なんで」
これは躾を放棄しているのではない。
その場で最も摩擦の少ない判断をしているにすぎない。
しかし外から見ている人間は、その前後の十分を知らない。
結果だけを見て、躾の欠如だと断定する。
ここに大きなズレがある。
なぜ、そのズレが起きるのか
ここで重要なのは、大人の成熟度だけではない。
そもそも社会全体が、子どもから遠ざかっている。
昔は、子育て当事者でなくても子どもと接する機会が多かった。
兄弟姉妹。
親戚。
近所の子ども。
地域で遊ぶ姿。
子どもが言うことを聞かない瞬間や、急に機嫌を崩す場面を自然に見て育っていた。
だから、当事者でなくてもある程度わかる。
「この年齢ならそういうこともあるよね」
という感覚が社会に共有されていた。
だが今は違う。
少子化、核家族化、地域コミュニティの希薄化によって、子どもと接しないまま大人になる人が増えた。
その結果、子どもを“小さな大人”のように見てしまう。
言えば従うはず。
注意すれば理解するはず。
その前提自体が、現実から離れている。
子どもの躾に敏感な社会ほど、大人が未熟になる逆説
ここで逆説が起きる。
自分の感情や判断を制御できない大人ほど、他者の規範違反に敏感になる。
一場面だけで断罪する。
背景を想像しない。
感情を即座に放出する。
それでいて、子どもの躾不足を語る。
だが本当に問われるべきは、子どもではなく大人社会の成熟度ではないか。
子どもを躾けろと叫ぶ前に、まず大人自身が
文脈を想像する
即断しない
他者の事情を汲む
という最低限の自己制御を取り戻す必要がある。
少子化は経済だけの問題ではない。
子どもとの距離が離れ、外部から監視し断罪する社会が強まるほど、子育ては共同体の営みではなく、評価され続けるパフォーマンスになる。
その圧力こそが、子どもを持つことへの見えないハードルを上げているのかもしれない。
