危機感とは、つながっていた回路が切れること
最近よく耳にする。
「最近は読まれない」
「市場が冷えている」
「昔ほど反応がない」
こうした言葉を聞くたびに、私はずっと少し違和感を覚えていた。
本当に危機なのは、市場そのものなのだろうか。
私はむしろ、危機感の正体は市場の変化そのものではなく、一度つながっていた回路が切れた感覚にあるのではないかと思っている。
最初から誰にも認知されていない状態では、人は案外「危機感」を持たない。
その場合に生まれるのは、不安というより苛立ちに近い感情だ。
なぜ世の中は同じものばかり選ぶのか。
なぜ溢れているものだけが読まれるのか。
なぜ自分のところには流れてこないのか。
感情の矛先は、市場そのものではなく、偏った導線や認知の仕組みに向かう。
一方で、かつて読まれていたものが読まれなくなる時、人が感じるものはまったく別だ。
それは単純に「読者がいない」という話ではない。
前はつながっていたはずの回路が、今は機能していない。
この感覚が大きい。
以前は届いていた。
以前は反応があった。
以前は自然に人が流れてきていた。
その記憶があるからこそ、減少は危機として立ち上がる。
つまり危機感とは、絶対的な市場の縮小を意味しているわけではない。
過去との比較によって生まれる、接続の断線感なのだと思う。
市場が壊れたのではない。
自分が立っていたラインが、以前と同じようにはつながっていない。
この「断線した感覚」こそが、人に危機感を抱かせるのではないだろうか。
危機感とは、世界全体の話ではなく、自分と市場との接続状態の変化を映し出した感情なのかもしれない。
