都合強狂
「我慢強狂」という言葉がある。
ここでいう「我慢」は現代の「耐える」という意味ではなく、仏教でいう「我を慢む」、つまり自分への執着や慢心を指す。
だから「我慢強狂」とは、自分の考えを頑なに押し通すことを意味する。
しかし、現代を見ていると少し違和感がある。
本当に人々は「自分の意思」を押し通しているのだろうか。
昔にも頑固な人はいた。
だが、その頑固さの背景には、
「職人として譲れない」
「家を守るため」
「仲間との約束だから」
「武士の面目だから」
といった、自分が損をしてでも守ろうとする意思や信念があった。
だからこそ「意地」という言葉が成立した。
一方、現代ではどうだろう。
その場で得をするか。
責任を回避できるか。
評価が下がらないか。
炎上しないか。
そうした損得勘定が先にあり、その都合を正当化するために考えを組み立て、自分の立場を押し通しているように見える。
つまり、
昔は、意思が先にあり、損得が後にあった。
今は、損得が先にあり、意思が後から作られる。
これは意地ではない。
都合である。
だから現代を表すなら、
都合強狂
自己の損得勘定のみを判断基準とし、その都合を守るためだけに頑なに自らの立場や考えを押し通すこと。
という言葉の方がしっくりくる。
昔の商人も利益を求めた。
しかし彼らは町の普請を支え、共同体を維持し、信用を商売の土台としていた。
利益だけを追うことは、決して誇るべきものとは考えられていなかった。
現代では、その「都合」が合理性となり、能力となり、時には権威として振る舞うことさえある。
だが、都合は信念ではない。
意地は、自ら損をしてでも守るものがある。
都合は、自ら得をするために守るものがある。
この二つは似ているようで、まったく異なる。
