出力するという手段を思考するという目的に置き換えていないか
思考は内在するものである。
そして、その発現の仕方は人それぞれ異なる。
ある人にとっては「書くこと」が思考の起点になる。
またある人にとっては、頭の中での内省や構造化が先にあり、書くことは単なる出力に過ぎない。
ここで問題になるのは、どちらが正しいかではない。
問題は「自分のルーティンを唯一の方法だと見なしてしまうこと」にある。
書くことで考えられる人が、
「書かなければ考えていない」と言い切る。
内省で完結できる人が、
「書く必要はない」と断じる。
どちらも同じ構造でズレている。
思考とは本来、内在する行為であり、
書くことはその発現手段の一つに過ぎない。
書くことで思考が深まる人もいる。
頭の中で完結させることで思考が進む人もいる。
あるいは、対話や身体的な行為によって思考が立ち上がる人もいる。
つまり、思考に至るルートは一つではない。
それにも関わらず、
特定のルーティンを「本質」として固定してしまうと、
思考そのものではなく「方法」に依存することになる。
方法は思考を助ける。
しかし、方法そのものが思考ではない。
AIの登場によって、このズレはさらに露わになった。
これまでは「書いている人」はある程度「考えている人」と見なされていた。
しかし今は、思考を伴わない出力がいくらでも生成できる。
書くことは、もはや思考の証明ではない。
だからこそ今、必要なのは
「何で考えるか」ではなく
「どこで思考が発生しているか」を見極めることだ。
思考は内在する。
書くことは、その一つのルーティンに過ぎない。
それを唯一の方法とした瞬間、思考はむしろ狭くなる。
