従順
「怒らせたくないだけなんだよ」
そんな思いを飲み込んで、少年は今日も「えらい子」を演じている。
模試の上位、ノートはきれい、忘れ物なし──
先生にも、親にも、「ちゃんとした子」と言われ続ける毎日。
でも、その“従順さ”は、自ら選んだものではなかった。
母の前で笑うのは、がんばりたいからじゃない。
言えば何かが壊れる気がして、黙るしかなかった。
身体に現れる小さな異変。
「わざとじゃない」小さな反抗。
誰にも言えない夢。
そして、見つかってしまった“本当の声”。
これは、誰にも気づかれないまま、
静かに崩れていく“えらい子”の物語。
#創作大賞2025
第1章:怒らせたくないだけ
塾のプリントが、ランドセルから少しだけはみ出していた。
母はすぐに気づいて、「きちんとしまいなさい」と言った。
ぼくは「うん」と言って、言われた通りに直した。
でも──ほんとうは、ぐしゃぐしゃにして捨てたかった。
塾には、行きたくない。
勉強は、嫌いじゃないけど、今のこれはちがう。
点数を取ることも、模試の順位も、誰かのためのゲームみたいだ。
ぼくは、ただの駒みたいにそこに置かれているだけ。
「今日は、ちょっと休みたい」って、
前に一度だけ、言ったことがある。
母は少し黙ってから、笑った。
口元だけが笑っていて、目は笑っていなかった。
「……今がいちばん、大事な時期だからね」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
怒られたわけじゃないのに、すごく、苦しくなった。
だから、もう二度と言わないって、決めた。
怒らせたくないだけ。
でも、がんばりたいわけじゃない。
「えらいね」「すごいね」「いい子だね」
そう言われるたび、ぼくの中の“ほんとうのぼく”が、
どこかへ閉じこもっていく気がする。
第2章:ちゃんとしてる子
先生に当てられたときは、答えを間違えないようにしている。
間違っても怒られはしないけど──「がっかりされたら嫌だな」って、どこかで思ってしまう。
友達の前でも、変なことは言わない。
目立たないように、でも“ちゃんとしてる”ように。
「◯◯くんって、いつも静かでえらいよね」
そう言われて、笑った。
それは“ありがとう”って意味じゃない。
“その通りだよ”っていう、仮面みたいな笑顔。
本当は、話したいことだってある。
おかしいって思うことだって、ムカつくことだって、ある。
でも、口にしたら──
何かが、壊れそうな気がして、飲み込む。
放課後、机を片づけているとき、
後ろの席の子がちょっとだけふざけて、ぼくの椅子を蹴った。
「ごめんごめん、ちょっと邪魔だった〜」
ぼくは笑って、「いいよ」と言った。
──ほんとうは、カッとなった。
でも、その“怒り”をどうしたらいいのか、わからなかった。
教室の空気は、なんとなく、全部ぼくに合わせてくる。
「そういう子」だと思われてるのが、なんとなく伝わってくる。
だから、ぼくもその通りにふるまう。
役を演じてるうちに、本当の声が、どこかへ行ってしまった。
黒板の予定表に書かれた「模試まであと5日」の文字が、目に入った。
また、週末が来る。
また、塾に行く。
また、黙ってがんばる。
誰も気づかないうちに、ぼくの中で、なにかが少しずつ詰まっていく。
第3章:痛くないふり
その日も、いつも通りに起きて、朝ごはんを食べた。
食パンと、目玉焼きと、ちょっと焦げたウインナー。
「ちゃんと全部食べなさいよ」
母の声は、いつもより少しだけ高かった。
ぼくは「うん」と言って、全部食べた。
でも、あんまり味がしなかった。
最近、よく頭が痛くなる。
ズキズキするわけじゃない。
なんとなく、ぼんやりする。重たい感じ。
目を閉じると少しだけ楽になるけど、それを言ったら、休むことになる。
休んだら──怒られる、とは思ってないけど、がっかりされる気がする。
だから、何も言わない。
母は「元気そうでよかった」と言って、弁当を詰めていた。
その背中に向かって、「今日は、ちょっと……」とは言えなかった。
「ちゃんとしていれば、大丈夫」
母は、よくそう言う。
でも、ちゃんとしてるのに、ぼくはどんどん変になっていく。
夜になると、なかなか寝つけない。
眠れたと思ったら、同じ夢ばかり見る。
──模試の会場で、時計の針がぐるぐる回ってる夢。
問題が一文字も読めなくて、体が動かない。
みんなは鉛筆を動かしてるのに、ぼくだけが止まってる。
起きると、息が浅くなっていて、汗びっしょりだった。
でも、朝になれば、また「普通のぼく」になる。
誰にも、言わない。
言ったら、全部が崩れそうだから。
ぼくは、ちゃんとした子どもでいなきゃいけない。
それが、この家のルールみたいなものだから。
第4章:わざとじゃないけど
社会のプリントを、持っていかなかった。
本当はちゃんと、カバンの中に入っていたのに──
朝、わざと、机の中に置いたまま登校した。
先生に言われて、ぼくは小さく「すみません」と答えた。
怒られたわけじゃない。
でも、クラスの子が少しだけざわついたのがわかった。
「え、あの子が忘れたの?」って顔をしてた。
それを見て、胸の奥がザワザワした。
怖いような、気持ちいいような、へんな感覚。
帰り道、ランドセルの重さがいつもより軽く感じた。
プリント一枚の違いなのに、不思議だった。
家に帰って、「どうだった?」と聞かれたけど、
「ふつう」とだけ言った。
母は、「そっか」と言って、すぐに夕飯の準備を始めた。
その背中に向かって、
「プリント、わざと忘れた」なんて、言えるわけがなかった。
──でも、自分でもよくわからない。
なんであんなことしたのか。
怒られたかったのか、気づいてほしかったのか、
それとも、ちょっとだけ自由になりたかったのか。
夜、机の引き出しから、ノートを一冊取り出した。
宿題じゃないやつ。
その最後のページに、ぐちゃぐちゃの字でなにかを書いた。
読めるかどうかもわからないような文字だったけど、
その瞬間だけ、少しだけ、呼吸がしやすくなった。
第5章:見られたくなかった
夜、母が突然、部屋に入ってきた。
「明日の持ち物、連絡帳に書いてた?」
その声はいつも通りだったけど、ぼくは少しだけ焦った。
机の上に、あのノートが開きっぱなしだった。
ぐちゃぐちゃの字、何を書いたかもよく覚えてない。
ただ、苦しいときにだけ、少しずつ書き足していたもの。
誰にも見せたことのない、自分の中の“本当”みたいなものだった。
母は連絡帳を手に取りながら、ちらりとノートを見た。
目が、止まった。
「これ……なに書いてるの?」
ぼくは、とっさにノートを閉じた。
「べつに。落書き」
「……なんか、怖いこと書いてないよね?」
冗談みたいに言ったその言葉が、
ぼくには、ぐさりと刺さった。
違う、そうじゃない。
怖いのは、それを“怖い”って言われることだった。
ぼくのなかに溜まってたものは、全部、
「おかしい」とか「大丈夫?」とか、
そんな言葉でふたをされて、閉じられていく。
何も言えなかった。
ただ「落書きだよ」ともう一度だけ言って、布団に入った。
背中を向けて、まぶたを閉じたけど、心の中はざわざわしていた。
“ほんとうのぼく”が、見つかってしまった気がして。
でも、それはちゃんと理解されずに、
「不安」とか「異常」とか、名前をつけられそうで、怖かった。
あのノートは、次の日、破いた。
「なんで?」って自分でも思ったけど、
“見られた自分”が、もう残っているのが嫌だった。
第6章:えらい子、やめたい
目が覚めたとき、頭がぼうっとしていた。
昨日のことを思い出すと、胸がぎゅっとなった。
あのノートはもうない。
書いてたことも、消えてしまった。
けど、ぼくの中には、まだ“なにか”が残ってる。
塾に行く準備をしているとき、
母がふと、言った。
「最近、ちょっと疲れてる? がんばりすぎないでね」
やさしい声だった。
やさしいのに──どうしてか、苦しくなった。
ぼくは、何も言えなかった。
「うん」って笑って、うなずいた。
それしかできなかった。
ほんとうは言いたかった。
「もう無理だよ」
「えらい子、やめたい」
「がんばってるふり、つかれたよ」
でも、それを言ったら、全部壊れる気がして。
ぼくも、母も、壊れてしまいそうで。
だから黙った。
黙って、ランドセルを背負って、家を出た。
空は晴れていた。
通学路の道は、いつもと同じだった。
でも、世界が少しだけ、遠く見えた。
友達の笑い声が聞こえる。
鳥の声も、車の音も。
でも、それが自分の世界じゃないみたいだった。
ぼくはちゃんとしてる。
忘れ物もしないし、テストでも上位に入る。
先生にも、友達にも、「いい子」って言われる。
でも──
そのたびに、
「ほんとうのぼく」は、どこかへ隠れていく。
誰にも見えないところで、
ぼくは今日も、“えらい子”のまま、生きている。
