色は認識するもの、癖は認知されるもの

最近よく見る「癖が強い作家」「癖を出す」という言い回しに、ずっと少し違和感があった。

違和感の正体を考えていたら、ひとつ整理できた言葉がある。

色は認識するもの、癖は認知されるもの。

たぶん創作において、この二つは似ているようで全く違う。


色は自分で見えてくるもの

色というのは、自分の中で繰り返し現れる方向性だと思う。

気がつけばいつも同じテーマに向かっている。

同じ問いを別の形で書いている。

同じ空気感の音を選んでしまう。

同じ構造の違和感に反応してしまう。

それは意図して「個性を出そう」としているわけではなく、自然にそこへ向かってしまうベクトルのようなものだ。

あとから振り返った時に、

「ああ、自分ってこういう色なんだな」

と認識する。

色とは、自分の内側で見えてくる連続性だと思う。

癖は他者に見つけられるもの

一方で癖は、自分が出すものではない。

癖というのは、他者が繰り返し見つける偏りだ。

読み手や聴き手が、

「またこの視点だ」
「この言葉の運び方、この人らしい」
「このテーマ、また来た」

と反復して認知する。

つまり癖の主語は、作者ではなく受け手側にある。

だから本来、

「癖を出す」

という言い方には少し違和感がある。

癖は演出するものではなく、滲み出たものが結果として認知されるものだからだ。

癖を自称した瞬間、それは少し演出になる

もちろん、自分でもある程度方向性が見えてきたら、

「これが自分の色だな」

と思うことはある。

ただそこで、

「自分って癖強いんで」

と先に言ってしまうと、少し意味が変わる。

それはもう他者が見つける偏りではなく、自分で先にラベルを貼ってしまっている状態だ。

言い換えれば、癖そのものではなく、癖の自己演出に近づいていく。

だから私は、できるだけ「癖が強い」とは言わない方がいい気がしている。

色は自分で認識していい。

でも癖は、他者に認知されて初めて立ち上がるものだと思うから。

色が繰り返されると、癖になる

創作の流れとしてはたぶんこうだ。

最初はただの色。

自分の内側の方向性。

それが作品の中で何度も繰り返される。

すると他者がそれを見つける。

その時、初めて癖になる。

つまり、

色は起点であり、癖は結果である。

この順番を取り違えると、創作はすぐに自己演出やテンプレ化に寄ってしまう。

だから私は、まず自分の色を見つめる。

癖かどうかは、受け手が決めればいい。

それで十分だと思っている。

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